Friday, November 25, 2005

弟が移民としては先輩です
(05-11-25)[s]

先日のお便りの中で、後藤日郎兄の黒髪が今でもフサフサしているとありましたが、70代半ばになっても、若い人より豊かな髪というのは凄いことです。 

もう40年位前になりましょうか。 東京で附属の旧友達が集った時のことです。 帰ろうとして玄関で日郎兄と並んで靴を履いていると、後に立った太田兄が、「おイ、そげんフサフサしちょったらいかん。 シゲマッ位で丁度よかとじゃが」と言います。 私は30代から薄くなっていたのですが、「ちょうどよか」と言われたのは、これが初めてで最後です。 日郎兄は今も昔も変わらないわけですね。

お宅から茅ヶ崎まで15分とは、意外に近いのですね。 鵠沼には弟も短い間でしたが下宿していたこともあり、会社の寮もあったので、「ぶらり途中下車の旅」に湘南沿線が出てくると懐かしくみています。

弟の和は、附属で2年下でしたが、自他ともに認める劣等生。 ある時まわりに唆されて、担任の今井先生に、「もっと点数をください」と直訴しました。 先生もその時だけは甘い点を下さったようです。

我々より一年上に、松村さんという秀才がいましたが、ご存知ですか。 この松村さんは、知能テストでは抜群の点で話題になったのですが、その気があれば一高でも三高でも入れたことでしょう。 それがどういうわけか鹿大を選んで、鹿児島に留まっておられました。 そして弟の家庭教師を引き受けてくださったのです。 

谷山のラサール高校にいた弟は、松村さんのおかげで、慶應高校に編入でき、無試験で経済学部に進んだのには驚きました。 

両親の知人に、「和ちゃんもいよいよ角帽ね」と言われて、本人は苦笑していましたが、南日本新聞の社員でも一橋のことを「イチハシ大学」という土地柄です。 ご存知なかったのも無理はありません。

卒業して暫く岩井産業に勤めましたが、間もなく中共貿易のダミーを始めました。 大手商社がまだ参入できなかった頃です。 しかし文化革命が始まり、不気味な情勢となってきました。 

その頃、視察団に同行してカナダを旅行。 亀戸の団地に住んでいた弟は、「この地球にこんな暮らしをしている人達もいるのか」と驚き、移住を決意。 しかし特技がありません。 そこで、鍼灸の夜学に通い出しました。 

1970年カナダ大使館に移住を申請したところ、幸い許可になり、早速バンクーバーに一家で移住。 ほんの暫くの間鍼の治療もやっていたのですが、東銀の駐在員事務所に雇われて、サラリーマン生活に戻り、定年までそこで勤めました。

私は1968年からロンドンに居たのですが、BBCの休暇で一時帰国する際、バンクーバーに寄ってみました。 みると、なかなか結構な、ゆとりのある暮らしです。 それなら私達も、という気になりました。

そこでロンドンのカナダ大使館に1973年申請。 翌年に移住しました。

弟は現在うちから15分位車で行った所に住んでいますが、絵描き三昧の生活。 それに孫のベビーシッティングで忙しく、世捨て人の境遇であることは、兄の私と同じです。

子供の頃は、兄が弟をうるさがって、仲が悪かったのですが、今はほかに身寄りも無く、年寄りになってきたので、仲良くやっています。

鹿児島の唐湊にあった両親の墓も、弟が整理し、両親の骨は、バンクーバーの墓地に眠っています。 そういうわけで、墓参りという口実も無くなりました。 (05-11-25)

Wednesday, November 23, 2005

穏やかな日が続きます(05-11-23)[n]

貴兄は文学部でしたか 私は経済学部でした
日吉の教養課程では音楽の村田先生の講義は入り口から遠い大教室でしたね
私は選択しませんでしたが卒業してからNHKの音楽番組で先生が解説して居られたのを聞いて懐かしく思いました
文学部の先生で印象に残っているのは加藤道夫先生で必須科目の英語の講義でした
彼の奥様は文学座で活躍していた方でしたね 夏休みが明けて先生が自殺されたと聞きショックを受けた記憶があります それも壮絶な死に方だったそうです
教壇に腰掛けて確かシェイクスピアの原本でしたかを教わりましたが人間味を感じさせる方で教師というよりファンとして憧れた覚えが残っています

ガッカリしたのは数学の田島先生で1高・東大出の秀才なのでしょうが彼の教える数学は高校時代の延長でした 彼も大学受験の本を出したりラジオで講義したりで 本業から外れる事をしていたように思えました 唯当時華やかだった六大学の野球の試合にぶっつかると休講にしてくれたのは有難かったです

三田では高橋誠一郎先生の経済学史は何時も超満員でした ゼミは数量経済の鈴木諒一先生でした 当時は新進気鋭の助教授でしたが一昨年亡くなりました

私の父は旧制五高から京都大学へ進みましたが 良く熊本の五高時代の話を聞かされていたので そんなイメージで大学へ入ったのですが 大違いでした 機械的に教室で講義を聞き終われば次の教室に移動するというエスカレーターに乗っているような大学の授業には就いて行けませんでした
クラスはあっても無味乾燥なクラスで クラスメイト同士で話し合う事は殆どありませんでした
知識のみ詰め込ませるといった当時の大学生活には失望し 余り大学には通いませんでした

明日の日本を担う人を創るには大学自体の在り方を変える必要を感じます
唯慶応自体はどの大学より進んでいるように思います

引越しの準備は進んでいますか 引越しは大変な事業です 疲れますし新しい住まいに慣れるまで時間が掛かります 良い事はこの機会に物を棄てる事が出来ます 何時までも不要な物に取り囲まれて生活するのも無駄なように思うのですが

でも疲れが出ませんようにお願いいたします それと新住所を教えて下さい
それでは又次便で お元気で。 (05-11-23)

Saturday, November 19, 2005

大学については私も屈折した思いです(05-11-19)[s]

早速私の希望をお聞き入れいただき、14ポイントで書いてくださって、有難うございました。 とても読み易く、パーフェクトです。

貴兄も、最近は銀座に出る機会が遠のきましたか。 私も学生時代はよく銀座のコーヒーショップに友達と出かけ、アゴのしゃくれた猿離れのしたウェイトレスの横顔に、銀座の薫りを感じたものです。 

学校を出てから銀座八丁目にあった同和火災に勤めていたことがあります。 昭和31年でしたが、尾張町の角から新橋まで、鉄筋の建物というと、タイプライターの黒澤商会と同和火災だけでした。 小松ストアや資生堂もまだ戦後だったのですね。 会社の屋上から西銀在界隈を眺めると、金春湯や高級バーが見えましたが、夜はネオンで華やかな夜の蝶の町も、化粧を落とした昼間の屋根はトタン張りでした。

あの頃は、会社のトイレも和式のみ。 昼休みに帝国ホテルの旧館まで出むき、地下のトイレをよく拝借したものです。 三等社員の無責任な行為でしたが、幸い誰にも咎められませんでした。 

1991年、久し振りに日本に帰った時、日曜日に、桜田門で地下鉄を降り、銀座まで歩いてみました。 ビジネス街はお休みで、人影もまばら、車の往来も閑散。 静謐な雰囲気に、やはり銀座は世界でも一流の風格があると、改めて印象づけられたことでした。

先日いただいたお便りの中で、大学には失望したと率直な感想を洩らしておられましたが、興味深く感じました。

私は高校時代成績が悪く、国立の一期校は勿論、二期校も無理と諦めておりました。 勉強は全然しなかったのですが、河合栄次郎編の「学生と読書」とか「学生と教養」など、日本評論社の学生叢書を古本屋で読んで、漠然と「大学とはこういう所だ」という幻想を抱いていました。 しかし、私も大学で、いささか幻滅の思いをした一人です。  

父は鹿児島で一介の商店主でしたが、七高や高農、師範学校の先生達と親しく、よくそうした先生達が店の二階に立ち寄って、紅茶を飲みながら歓談しておられました。

その中で父が最も親しかったのは七高の哲学の先生で、その哲学者の話を聴くのが私も楽しみでした。 ところが、浪人してやっと入った慶應の文学部で、日吉の大教室の壇上から、哲学の助教授が、開口一番、「これから諸君に哲学を教える」とのたまうたのには、ビックリしました。 入試の面接の際、私を見下した調子であしらった下品な試験官も、入ってみたら哲学の教授でした。 

私にとって一番有難かったのは、池田弥三郎という国文学の先生が、一対一で忠臣蔵を教えて下さったことです。 その直後、池田先生は、マスコミ界のスターとなり、大学の常務理事にもなられたのですが、私が受講した時はまだ無名の新進学者。 従って、学生も私一人という贅沢な環境でした。

私の娘は、モントリオールのマッギルという、北米やヨーロッパでは割と名の知れた大学に行ったのですが、ある時、「マッギルは、ダディの行った慶應と同じで、入るまでは良い学校だと思っていたけど、出てからアメリカの大学で勉強してみると、ちょっと失望ね」と言うので驚きました。 私は慶應のことなど口にした覚えも無いのですが、娘というものは、何か敏感な嗅覚を備えているらしいと思ったことでした。

上海のある大学が発表した世界の500の大学の番付によると、ハーバードが1番、スタンフォードが2番、東大が15位、京大が20位というのはわかるとしても、慶應が神戸大や広島大と並んで300位前後。 早稲田は400位前後と評定されています。 しかしこの番付には、一橋も国際基督教大も500校の中に入っていないのですから、とても完全なものとは言えないかもしれません。 (05-11-19)

Friday, November 18, 2005

今日は久し振りに銀座へ出ました(05-11-18)[n]

大きな文字で書くようにしました 仰せのように14ポイントです 若し不都合でしたら 次は18ポイントになりますが 如何でしょうか

今日は久し振りに東京へ出掛けました 神戸の友達が上京して来たのです
帝国ホテルで待ち合わせ地下のフランスレストランで食事しました
神戸の元町で神戸眼鏡院という名の眼鏡屋さんでした 大丸他のデパートにもテナントとして出店していたのですが経営難に陥り 自己破産しました 中内さんに私淑して彼の為に色々な事をしてくれた人なのです
中内さんも社内の部下には話せない事を彼には持ち掛けていました 私とはウマが合い辞めてからも付き合っています
銀座のメインストリートには所謂外国のブティックが出店していますので趣が大分変わりました 小奇麗になった感じです 交詢社も建て替えました 上層階に以前からあった交詢社が入り下層階は此処にも外国のブティックが入っています 和光は変わりませんが三越は目下増築中で松坂屋も壊して建て替えるそうで準備中と聞いています 歩道が広くなりましたので通行人には良くなりました 京橋から日本橋まで行きましたが
丸善は目下建て替え中です 高島屋は以前と変わりありません

日本橋交差点の白木屋は東急百貨店に変わったのですが廃業し 跡地は事務所テナントを入れる高層建築物となりましたが 主として外資系の会社が入っているようです 今此方は外資系の不動産投資会社が大活躍中で 行き詰まった会社を買収しては再生して売却すると言った記事が毎日のように報道されています 日本でもこれを真似て不動産投資会社が多く出現して参りました

経済は生き物ですが日本から世界を見るより 世界から日本を見るのが正解のようです 一国だけでは済まされない時代となりました

貴兄も中学時代はご苦労されたようですね 漱石に凝って居られたとは凄い 私には文学的な才能が無くて困りますが 記憶にあるのは堀辰雄くらいでしょうか あの「風立ちぬ」は何回も読みました
それと何時の時代だったでしょうか 高村光太郎に惹かれて「智恵子抄」を読み 挙句の果てには 福島県の安達太良山に何回も登山した事がありました お陰で東北地方が好きになりました
暇になった今はもう一度山登りを再開したいのですが この鈍った身体では無理でしょう 年寄りの登山が
今流行りになっています 

三越時代の友達で有名なアルピニストが居ます 彼をダイエーに引っ張り一緒に仕事をしました
その彼も今は悠々自適の生活ですが 慶応山岳部の副会長で国内は勿論海外へも遠征しています
今年はヒマラヤの未踏峰の山を征服したそうです 私は内地の南アルプスに憧れて登山したのですが 身体を壊して中断し日本で富士山に次ぐ第二の高さの北岳は未踏峰です これだけは実行したいと考えているのですが果たして叶えられるものでしょうか

暮れの引越しは大変ですね 片付け物が一杯出て来るでしょう 常に整理を私も考えているのですが 思うようには進みません 疲れが出なければ宜しいですが

それではお元気でお過ごし下さい 又。 (05-11-18)

Thursday, November 17, 2005

私の中学時代は軍国主義から混乱への転換期でした(05-11-17)[s]

私の視力が弱いことを気遣って、メールの字を大きくしようかという有難いご提案ですが、感謝の限りです。 そうですね。 14ポイント位だったら、読み易いかと思うのですが、お手数をおかけして恐縮です。 眼の治療も複数の医者から受けているのですが、お天気と睡眠の加減で、よく見えたり、霧がかかったりで、悪化はしていません。 しかし奇跡もまだです。

貴兄は、延岡から宮崎に移られたのですか。 私は、6月17日の空襲の夜は、二中のそばの、昔父が育った祖父母の旧居に住んでいました。 暫く防空壕にひそんでいたのですが、夜空が真っ赤に染まり、まわりが火の海になったので、逃げ出しました。 二中の窓ガラスも全面その火を反射して、まるで校舎そのものが燃えているかのように見えました。 

文字通り焼け出されて、祖母や伯父の居た愛媛県の小松町に移りました。 そこで終戦を迎えたのですが、敗戦の日も、石鎚山の山容は変わらず、「国やぶれて山河あり」という言葉が耳の中で響いていました。 まぶしい陽光の中で、二人の青年が高笑いしているのが異様に思えました。 しかしもう艦載機に銃撃されることはないと、安堵の気持ちをもったことも覚えています。

戦争も終わったので、鹿児島へ帰ることにし、貨車やすし詰めの列車で焼け野が原の故郷に戻りました。。 しかし家は無く、二等兵として終戦の年に召集された父の消息も判らず、知人を頼って、薩北の大口町に落ち着きました。

やがて父は中国から無事復員してきましたが、私は学校にも行かず、漱石全集を読み耽っていました。 そして新学期が始まる翌春、伊敷の旧兵舎にあった二中に復学しました。 当時二中の校長だった池田俊彦先生は、私の復学に渋ったと、後で父の旧師から聞かされ、驚きました。 親子でお世話になった恩師のおかげで、学校に戻れたのは幸いでした。

貴兄のような方が、配属将校にサーベルで殴られたり、職員室に立たされたとは、とても信じられません。 私も配属将校に散々殴られましたが、子供のような生徒を殴れば、アメリカに勝てるとでも思ったのか、あの頃の二中にも、理不尽な暴力教師がはびこっていました。

それが間もなく二高女と合併して甲南高校となったのですが、甲南の同期の卒業生も、東京で毎月集まって、コーラスの練習を行っているそうです。

貴兄が横浜で毎月お友達と旧交をあたためておられるのと似ていますが、彼らも懐旧の気持ちにそそられ、若い頃は音楽に見向きもしなかった人も、年とともに柔らかく熟した思いになり、集ってくるのでしょう。

附属で、我々より一年下の複式に、有村祐輔という生徒がいたのを覚えていませんか。 お兄さんの有村光平さんは、我々より一年上でした。

その有村君が、高校を出て横浜の波止場で働いていたのですが、芸大に入り、声楽家になりました。 ロンドンで出会った女性と結婚し、山梨の都留文科大学の教授になりました。 彼の主宰する「コールユー」に甲南の同窓生が集まり、練習を重ね、都内の演奏会に出場するほどの存在となっています。 私も東京にいれば参加していたことでしょう。 

引越しの日も近づいてきますが、手をこまねいているばかりで、いざとなってから、慌てふためくことでしょう。 (05-11-17)

Monday, November 14, 2005

私も男師附属時代が最も記憶に残っています(05-11-14)[n]

目がご不自由だと伺っているのですがメールは大丈夫ですか もっと大きな文字で書くようにしましょうか
ご遠慮なく仰って下さい
私は目は左右不揃いです 左が1.2右が0.7です 遠くは左目で見、近い所は右目で見るのだそうです
従って新聞等も老眼鏡を必要としていません 唯そろそろ限界が来たようで細かな字が見え難くなりました
年ですね

私は幼稚園は津曲学園の鹿児島幼稚園でした 附属から一中に入り終戦の年、鹿児島大空襲があった直前に
両親の居た宮崎県の延岡中学に転校し、其処で終戦、その後宮崎中学から高校に変わった宮崎大宮高校に
編入になり慶応へと進みました 一中時代は2年になった時から殆ど授業が満足に行なわれず西田町の防空壕掘りに動員されました 一中時代は上級生に殴られたり同級生と喧嘩したりで良い想い出は全くありません
配属将校にサーベルで殴られ職員室に立たされた覚え等今考えても腹が立ちます 高校時代は戦後間もなくでもあり 米国流の民主主義が席捲し180度変わった教育を受けましたが それなりに生徒自体は纏まりが強く今でも活発に同期会が開催されています 東京へも多くの同期生が在住していて毎月横浜で仲良しクラブを開いています 大学は入ってからは正直言って失望しました 特に前半の教養課程は高校の延長で聴講する気にもなれず
マージャン等の遊びに大半を費やしましたが、遊びは兎も角真に付き合って語る友には恵まれなかったように
思います
唯三越に入り社長の秘書官になりましたら慶応義塾との繋がりがあるものですから 否応なしに先輩塾員と付き合うようになりました 三田会の全国的な組織の連合三田会の会長職を三越の社長が務めていたのです 塾にも出入りしました 今頃になってクラス会が活発に行なわれるようになったのですが幹事役をしています

振り返ってみて懐かしいと思うのは貴兄と同じく附属時代です 中拂(こんな字だったでしょうか)豊住先生、
森田二夫先生、そして亡くなられて少しの間ピンチヒッターの四元先生(この先生は私達のクラスに偏見を持っていて悪口ばかり言っていたと川池一水さんは言うのですが私はこの先生は記憶にありません)それに山田喜義先生と皆さん熱心でしたね それと実習に来られていた師範学校の先生方(松元先生の名前を覚えて居ます)
恵まれた附属時代でした 貴兄は戦災に遭われたのでしょうか 私は幸にも附属時代の通信簿を所有して居ます
運動会も行幸記念碑の前のグランドでしたね 休学して我々のクラスに入って来た稲田さんという小父さんっぽい人を覚えていますか それと武岡の麓の建部神社の近くに住んでいた松田さんもクラスの名簿にはありませんが
居ました 彼は伊敷の練兵場での模型飛行機の大会で一等賞を獲得しましたね
妙円寺詣りの時に鳥目で苦労した生駒悦郎さんは県立工業へ進んだのですが彼の消息も不明です
北元俊一郎さんの話では附属の集まりを開催しても出席者は限られているというのですが
先が見えて来ましたので出来るだけ多くの友達に会いたい気持ちが強くなりました
今週は後藤日郎さんと会います 焼酎の大好きな人です 常にマイペースを貫く人で彼の勤めた小田急電鉄でも
そうだったそうです 髪は私と違って真っ黒です 見事なものです

今日は車で15分の茅ヶ崎ゴルフ場へ行きました この近辺の三越OBの会で20名参加しましたが大叩きして11位(52・53)でした もう40年も経っているのですが 生来練習嫌いで上手になりません 幸い暖かで助かりましたが緑の絨毯の上を散歩して来ました

それでは今日はこの位にします お元気で又。 (05-11-14)

Sunday, November 13, 2005

私の附属の思い出は最高でした(05-11-11)[s]

私は平家物語や太平記を読んだことはないのですが、中内さんの生涯は、「大栄太平記」が書けそうな波乱万丈の物語ですね。 特に主人公の運命をめぐる、まわりの人達のうつろいやすい心。 それが昔も今も普通なんでしょうね。

私は、自分の受けてきた教育をかえりみて、附属の教室で、諸先生方の御指導をいただいたことが、一番恵まれたと思っています。 私はそれから二中に入り、一年の休学も含めて、甲南高校を終えるまで7年間同じ学校で過ごしたのですが、これといった思い出はありません。 そして大学は文学部でしたが、これも、自分がいい学生でなかったため、得るところが余り無く、そのまま社会に出てしまいました。

ただ、私の友達が、小学から大学まで、今でも付き合ってくださるので、家内が驚いています。 家内も神戸の師範附属ですが、それからアメリカの大学まで、数多くの学校に行きながら、現在では一人の消息も知らないと、慄然たる様子です。

小学、国民学校時代の40人の同級生の諸兄は、どう思っておられるか知りませんが、森田先生や山田先生の様な真摯な情熱をもった教育家は、甲南高校の国史の村野先生を除いて、記憶に浮かんできません。 私の現在の読み書きの能力は、ここで培われたもので、それ以後何を学んだのか、10年余りの間学びの舎にいながら、辛うじて英語の単語を幾つか覚えたこと以外は、無為に過ごしてしまったという感があります。

大学を出てから5年の会社員生活の後、結婚してニューヨークに行き、1年間だけ、コロンビア大学に遊学する機会が与えられました。 その時生まれて初めて勉強というものをさせられました。  心理学の手法を応用して、本や教科書はどういう風にして読むべきか。 リポートや作文を書く手順は。 ノートやカードの作り方。 図書館の書庫に入って、資料の検索の手ほどき。  先生も、獅子吼に近い熱のこもった講義。 テストは、答案を、赤ペンで真っ赤に直して、返してくれます。 私が日吉で聴講した村田武雄の音楽はCでした。 小学から高校まで、唯一秀だったのは音楽だけでしたが、アメリカ人学生なら、あのレコード評論家に、採点した答案を見せてほしいと問い合わせるところでしょう。

私の英語では、コロンビアのレクチャーについていけませんでしたが、私自身の体験からして、ピアノでも自転車でも水泳でも、子供の時に習っておけば、老人になっても、なんとか指や脚が動くものです。 そういう意味でも、英語も小学校の時から叩き込んでおけば、将来の日本の国益にもプラスになると思うのですが。

(05-11-11)
箱根仙石原から見た富士山は綺麗でした(05-11-09)[n]

義兄の一周忌の会合で姉妹が集まりましたので序に誘って箱根へ一泊の小旅行をして来ました
雨上がりの箱根は上の方は大分紅葉していましたが 今年は残暑か残りましたので例年に比べ
紅葉が遅いようです 因みに此処2,3日は朝夕は冷え込みますが日中は20度台まで温度が上がります
芦ノ湖からは富士山が冠雪して綺麗に見えました 

中内さんの学園葬には一般の方は殆ど見えませんでした ダイエーの取引先も銀行等は別として
そんなに沢山の人は見えませんでした ダイエーのお陰で大きくなった取引先は数知れずあります
貴兄の言われるように一旦失脚した人には見向きもしないのでしょう 尤も本人に徳が無かったと言えばそうかも
知れませんが人心の浅はかさと言うか寂しいものを感じます 参列した多くの方は元ダイエーに奉職した方でした
 
私の最後の仕事は福岡でのダイエーを取巻く環境の改善でした 中内さんの、ダイエーの仕事の進め方には
常に問題がありました プロ野球を譲り受け フランチャイズを福岡に求めましたが中内さんにしてみれば
福岡の発展に大いに寄与すると、寧ろ有難がられると思ったのでしょうが福岡財界は最初に挨拶が無くて
相談に預からなかったとの僻みからソッポを向きました その段階で私に懐柔策を振って来たのです
懐に飛び込むという日本流のやり方で財界に入り込み成功しました 然し彼等は自分の会社の利益の為に
それに福岡の発展のためにと言う大義名分?を翳しダイエーのためにはと言う考えはありませんでした
それが分るだけに厭になりました
ダイエーの凋落が表に出て来ると やれ球団はどうなるのかホテルはどうなるのかと言う論議だけでした
福岡の今の発展はダイエー抜きでは在り得ませんでした ランドマークとなったドーム球場と高層ホテルが
ホークス球団の強くなると共に福岡経済を引っ張ったのです その恩を忘れダイエーを支えようとする動きは
全くありませんでした 売却がソフトバンクに決まり球団も福岡に存続するとなったら もうダイエーの声も
聞かなくなりました 経営が安定した会社に替わって良かったと言う人達だけです
人情を求める事は許されない事でしょう 経済社会では常に会社を維持する事が求められます 当然だと言えば
当然でしょう だから勝ち組に居る事が条件です 世の中の儚さ加減を味わいました 

ダイエーが為した社会的貢献は色々ありました 今は当たり前になりましたがスーパーでセルフ篭を提げて
一方通行で買物をして行くアメリカ方式を日本に最初に採用し普及させたのはダイエーです 産直なる制度を
確立したのもそうですし アメリカではない日本流のGMSという型も中内さんのアイディアでした
亡くなられた時マスコミは彼を英雄として崇めましたが 私は生きている時に評価して貰いたかったと思うのです
英雄の末路は余りにも哀れでした

田園調布の家は画家の岡鹿之助さんの所有でした 私が紹介しました もう手放しました
中内さんとは25年の主従関係でした 大いに影響を受けましたが私にとっては唯一の師でした
色々な出来事がありました

又送ります 今日はこの位で
お元気でお過ごし下さい
(05-11-09)
中内さんの葬儀に関連して(05-11-07)[s]

中内功氏の学園葬に参列した会葬者が5千人だったとうかがい、「流石」というか、「予想外」というか、いささか意外の念に打たれました。

その数を聞いて、渥美清の追悼の会に大船まで赴いた万を数えるファンのことを思い出したのですが、5千人の会衆のうち、かつての取引先などの半ば義理で出かけた人達の外に、ファンに似た心情で参列した一般市民の割合は、いかばかりだったのでしょうか。

インターネットで、中内氏死去のコメントを幾つか読んだのですが、「日本人は、負け組みには冷たい」とか「ダイエーが社葬にしなかったのはヒドイ」というような意見がある一方、経済記者の中には、「阪神大震災で、村山首相が遅疑逡巡している時に、中内さんはヘリコプターとフェリーをチャーターして物資を運んだ。 中内さんが首相だったらと思った」と感慨を込めて書いているのが目にとまりました。

中内氏が退陣を表明した最後の総会で、、「議長、中内さんがあんまり寂しすぎるわ! 拍手で送ってあげたい」との声があがり、満場の拍手が止まなかったそうですが、それが大方の真情でしょう。

日本のみならず、海外の日本人社会でも、リタイアして、無位無冠の法衣になった途端、存在を掻き消されてしまいます。 これは駐在員の奥さん達にしてみればもっと大事なことで、旦那の勤め先と肩書きが価値判断の物差しになります。 カナダ人やアメリカ人だと相手の値打ちを測るのに、「HOW MUCH ARE YOU WORTH?」と露骨に訊く拝金主義者もいます。 その点、私の出会ったイギリス人には、勤め先や肩書きに
関心の無い人がいました。 あるパーティーで、私を日本人とみてとった紳士が「自分の友達は柔道六段だ」と言いますから「レゲットさんでしょう」と言うと、「どうして知っている」「私のボスですから」「えっ、何処で?」「BBCで」「彼、BBCの部長だったのか。 知らなかった」というやりとりをしたことがありました。 レゲットさんにそのことを話したら、「彼、階上のフラットに住む弁護士だ」と笑っていました。  

私が息子の結婚式のために帰国したのは2001年でしたが、家内の実家の二三軒先の角に、一風異なったコンクリートの塀をめぐらした家がありました。 「あれがダイエーの中内さんのお宅」と家内が教えてくれましたが、あの頃はまだそこに住んでおられたのですね。 あれも人手に渡ったのでしょうか。

あの辺りも有為転変、すっかり代替わりしてしまったようです。 家内の実家も例外ではなく、15年程前に古い家を売ったのですが、買主はそれを取り壊して城砦の様な家を建てました。 しかしいかなる事情によるものか結局その家に住むことなく、また売りに出ているそうです。 92才の義母は元の敷地内に建てた小さな家にまだ住んでいますが、あの辺では最も古い住人になってしまいました。 田園クラブでダブルスながら毎週白球を追っており、我々娘夫婦の方が先に倒れそうです。

中内さんは、一度は日本一のタイトルを手にされたのですから、戦国の武将なら天下を取ったも同じ。 そうした稀有の逸材に貴兄も親しく私淑されたのですから、これまた稀有の巡り合せでしたね。

それにしても、人生を FINISH WELL するということは難しいものですね。 旧約聖書のダビデ王の故事を引いて、終わりを全うすることの至難さを、レクチャーで聴いたことがあります。 一介の羊飼いから、神の祝福のうちに栄華を極めた人でも、一転して暗黒の道を歩まなければならなかったとは、多くの偉材にも当てはまることでしょう。 

愚鈍な私の人生は、遂に敗者復活のチャンスもないまま終わるのですが、これも定めの内かなと観念しているこの頃です。

前にも申しました様に、私もこれから減量生活に入ります。 粗大ゴミや古いしがらみを捨てるのも、それなりの勇気が必要でしょうが、同時に私を絶えず襲う亡霊や怒りも捨て去ることが出来るきっかけとならないものかと思うのです。
(05-11-07)
お子様達も其方にお住いで宜しいですね(05-11-04)[n]

貴兄の言われるように 昔の明治節や紀元節は快晴だったのですが 戦後はそうでもなくなりました
今年も11月3日文化の日もそうでした 世の中の変化に伴ってお天気まで変わりました

昨日は中内さんの創った神戸の流通科学大学で彼の学園葬が行なわれましたので 日帰りで行って参りました
4000人~5000人位の方が来て下さいました 有難い事です ダイエーは立場上ノータッチで 大学職員と学生 それに私共OBが手伝いましたが 良い葬儀でした 彼にはこの大学しか残りませんでしたが 余生を殆ど
>この学園で過ごしましたので 恐らく天国で満足して居られたと思います これで私と中内さんの縁も終わり ダイエーと決別しました 少し無念さが残りますが もう何時までも引き摺る事は無いようにしたいと思っています

お子様達が大勢居られ 然も外地で夫々生活をして居られるとの事ですから 貴兄ご夫婦だけ遠く離れてお住まいでなくて宜しいのではないですか 私は今の処宗教心は余りありません  唯私の家の仏壇と家内の実家の位牌は預かっているものですから 朝は水とお茶を供えて手を合わせています 
お墓も一昨年宮崎から移しました 家内の実家のお墓と同じ敷地内に造りましたが 大体毎月お線香を立てに行っています 藤沢市内にあり 車で10分の距離です 私の父は89歳で8年前に他界、母は私が28歳の時に52歳で早死にしました 
今になって親孝行をしなかった事を悔いています 毎朝仏壇に前日の報告をしています

昨日の中内さんの葬儀に大塚邦彦さんは来られたそうです 私はお会い出来ず伝言を聞きました
そう言えば大塚さんと会食をすると 麹町でしたかマンションに娘と一緒に暮らしていると聞いていまして
待っているから早く帰ると言って居られました その娘さんがお嫁に行かれたのですね

永谷さんといい大塚さんといい本当に縁とは不思議なものです

師範学校の周りを廻らせたのは親父の教育でした 元々腺病質で体が弱かったので 父としては丈夫な体にさせたかったのだと思います 何せ一中で鬼教頭として有名だったのですから 息子に対しても厳しさがありました 今になって思えばあの走った事がその後の健康に役立ったのでしょう
今は毎日1万歩歩くようにしています 海岸まで約2キロありますが毎朝の日課になっています

附属時代に行った谷山の地願時を覚えて居られますか 市電の終点谷山駅から降りて歩きました
長い道程だったとの記憶があります それに夏海水浴に行ったのは矢張り谷山駅で降りて行ったのではないでしょうか 与次郎ヶ浜がそうなのでしょうか それと妙円寺詣りも夜通し歩いて伊集院まで往復?したのでしょうか
生駒さんが鳥目で苦労したのを覚えています 先日鹿児島に行った時に郷土料理の店「熊襲」へ行きましたら店のチラシにその時歌った歌が書いてあり懐かしく見ました 戦災にも会い街が変わるのは仕方が無いのですが 変わらないで欲しいと思うのは年寄りの僻みでしょうか

今日は快晴です 朝夕は冷えますものの日中は20度を超す暖かさです 2階から富士山の頂が見えるのですが 今日は見えません もう冠雪しています 例年より少し早いと言いますが今年の冬はどうでしょうか
それではお元気でお過ごし下さい 又。
(05-11-04)
移民の家族はグローバルです(05-11-03)[s]

11月になると、バンクーバーは、毎日雨です。 我々が明治節と言っていた頃は、いつも日本晴れだったように思いますが、、親父や祖父の年代の人には天長節。 戦後は、文化の日となり、菊薫るという明治以来の雰囲気が遠ざかってしまいました。

鵠沼の晩秋、初冬は、すがすがしいことでしょうね。 出来れば一番良いのは、夏をバンクーバーで過ごし、冬は日本でお正月を祝うことです。 

うちの長男は、大塚さんの娘と4年前に結婚したのですが、早基子さんは東京、謙はバンクーバーに住んでいたので、デートは出来ず、Eメールで求婚をたような次第でした。 早基子さんは、上智を出て、ニューズウィークの東京支局で働いていたのですが、そのかたわら町田や三軒茶屋のホライズンチャペルで手伝いをしていました。 謙の友達で、早基子さんの友達でもある人の紹介で、知り合いました。

謙は、バンクーバーのプロテスタント教会の牧師。 子供の頃は手のつけようのない悪童でしたが、14才の時クリスチャンになり、シカゴの近くのホイートン大学を卒業。 東京のソニーで暫く英語を教え、ボストン近郊のゴードンコンウェル神学大学院に学んで、牧界に入りました。 大塚さんはどうか知りませんが、お母さんとお姉さんはクリスチャンという家庭です。 

そういうわけで、今は早基子さんも、牧師の専業主婦。 子供はまだ出来ませんが、千人の教会の主任牧師の妻ですから、忙しそうです。 我が家から車で15分ばかりの所に住んでいます。 バンクーバーはイーストとウェストに分かれていて、イーストは庶民の町、ウェストは中流ということになっていて、丁度その境目の所に住まいも教会もあります。 姑の家内と、月に一回海辺のホテルで朝食をして、それから森林公園を10キロ歩いています。 

附属時代の野村君というと、俊足で、毎朝師範学校のまわりを走っていたのを思い出すのですが、あれは何キロぐらいあったのでしょうか。 私も月に一回医者の健診に行く時、往復8キロを歩かされて閉口なのですが、不承不承重い足を引き摺っています。

ほかにもう1人末っ子の息子がいて、これもバンクーバーに住んでいます。 イランからの難民と結婚し、2才の女児がいます。 サンフランシスコに居る長女は40才。 まだ子供は居ません。 次女はロスアンゼルスの近くで、男児1人。 三女はモントリオールで、子供は男女1人ずつ。 今までのところ、まだ誰も刑務所や病院のご厄介にならないで済んでいるのは極めてラッキーなことと感謝しています。 IN-LAW達 は、早基子さん以外は皆ノンジャパニーズ。 IN-LAW や孫とのコミュニケーションは、家内に任せています。
(05-11-03)
寒くなって来ました(05-10-29)[n]

12月に引越しをされる由 どんな生活になるでしょうか
私の住んでいる藤沢市の鵠沼は昔は東京に住む人の別荘地でした
藤沢からJRか小田急線で東京まで約1時間の通勤圏内となりましたので様子が変わりました
今は東京、横浜へ通勤する人の町となりました それと相続税が高率だものですから 被相続者が税金を納めきれず 土地代の高騰から 細切れに売られ その結果広い敷地にポツンと家が立っている風景は見られなくなり 狭い土地に目一杯の家が寄り添って建つという 普通の街に変貌しつつあるのです
大正、昭和に掛けては 所謂文人の別荘が並んでいたそうです 芥川龍之介等も此処 で育ったそうです
昔の住宅地ですから道路も狭く 車のすれ違いが出来ない道ばかりです
缶詰の国分さんやファスナーのYKKの吉田さんの家くらいでしょうか 昔の面影の残っているのは
変わって欲しくないと思っているのですが 現実はそうは行きません

鹿児島と言えば 私は薩摩大使という名誉職を頂いています 尤もこの大使役は 1000人位は居ると思います
福岡にダイエーがプロ野球ホークス(身売りして今はソフトバンクスに変わりました)のフランチャイズを置いた時 地元との調整が上手く行かず 駆り出されて 地元との融和を図ったのでしたが その時に鹿児島の南日本新聞社(横小路昇君が居ました)と交渉があり 推薦を受けました そんな次第で 鹿児島の情報誌を毎月送って来ます
或程度纏まりましたらお送りします

孫が2人居るのですが 明日はその七・五・三のお祝いで鎌倉八幡宮に参詣に行きます 上が娘で7歳、下が男子で3歳です お天気が崩れ模様で心配ですが 何とか晴れてくれないかと願っています 長男は慶応を出て三井生命に入りましたが 今年40歳になります 実は我家の直ぐ近くに土地を持っていますので 其処に住んで欲しかったのですが 東京に通うには遠過ぎると言って 大田区の久が原に建売を買い サッサと越して行きました 当て外れしましたが お嫁さんの気持ちになれば 舅・姑の近くでは住み辛かったのでしょう 色々な事が起きます

北元俊一郎君から電話がありました 附属の同窓会が終わってから直ぐ中国へ旅行したのだそうです 声も
「オンジョ」声で 昔の彼からは想像も出来ません でも附属の同窓会は彼抜きでは廻りません 何時までもお互い丈夫で長生きしなくてはなりません

お大事にお過ごし下さい お元気で。
(05-10-29)
一軒の家を維持するのは大変です(05-10-28)[s]

10/26に戴いたメールを拝読しながら、「ごもっとも、ごもっとも」とうなずいておりました。

奥様の病院ままでの往復だけで3時間。 そして病院でのお見舞いに3時間。 それを週3日繰り返されるのですから、それだけでフルタイムの日課ですね。 

そして言われるように、一軒の家を持っていると、そのメインテナンスだけでも、やはりフルタイムの時間と注意を必要とするはずですね。 モントリオールでは、冬は雪かきという、心臓に悪い仕事が待っていました。

私なんか、今、借りているというか、ハウスシットしているようなものですが、それでも屋根の補修、芝生の手入れ、ペンキ塗りとか、いろいろ気を使います。 カナダの家は、普通300坪ぐらいの敷地ですが、この家には車庫がありませんので、その分だけ、芝生が広くなっています。

30年前移住してきた頃は、芝刈りというと、日本からの移民の仕事でした。 よく言えばガーデナーですが、要するに芝刈りです。 他に能の無い人で、英語ができなくても、「日本人のガーデナー」と言えば、仕事があったのです。 私も、他の日本人から、「お宅もガーデナー?」と訊かれたことがあります。 毎日地下室でタイプライターを叩いていて、青黄色い顔をしているのに、どうしてそんな事を訊くのだろうと思いましたが、日本人のステレオタイプだったんですね。 

庭師でなければ、漁師。 この顔色の悪い日本人に向かって、「君は漁師かね」と訊くカナダ人もいました。 大きな図体で、押し出しだけで圧倒されそうな感じ。 そこで「貴方は何の仕事?」と訊ねたら、「日産に勤めている」と言います。 途端に、図体がしぼんでしまったように思えました。

ところがそれは30年前の話。 8年前にバンクーバーに戻ってきたら、様子が大分変わっていました。 昔は中国人や日本人は二等市民。 それが今度帰ってきたら、まわりはミリオネアの中国人の豪邸ばかり。 香港や台湾からのニューカナディアンです。 敷地いっぱいに建てた住宅は、7寝室、5浴室、3~4台の車庫つき。 そしてその庭の芝を刈っているのは白人の男達です。 

私はしがない年金生活者ですから、人を雇って芝を刈るなんてとんでもない。 そう思っていたのですが、70を越えると、きつくなってきました。 そこで近所にならって芝刈りを頼むことにしました。 春から秋まで、10日置きに、白人の青年が来て、手入れしています。 おかげで、身体も心も楽になりました。

12月には1寝室のアパートに移ります。 昔、駐日英国大使だった人が、リタイアして、ロンドンで2寝室のフラットに入ったときいて驚いたのですが、カナダの前首相も、最近リタイアしたら、2寝室のコンドミニアムに移りました。 私だったら、屋根裏か地下室の小部屋が分相応の所です。

しかし、アパートに入れば、住居の維持に手がかからないし、暖房費も家賃のうち。 警備保障も寄付のお願いも心配無用。 今よりもっと気楽に暮らせると、楽しみにしています。

完璧主義者、つまり引き延ばしの常習者については、別なメールで考えてみましょう。
(05-10-28)
お返事が遅くなりました(05-10-26)[n]

独りで生活していると全てが自分に降り掛かって来ます 少なくとも一家の主ですから 家事、洗濯、食事は当然ながら 家計とか 日常茶飯事の事の他 例えば家の補修とか 昨日などテレビのデジタル化(2012年実施)に伴う前倒しの工事が行なわれ その立会いとか 思い掛けない突発な事が起きて その対応に追われます
独り暮らしだと楽で良いだろうと皆さんは仰るのですが 結構忙しい
そして毎週3回は車で片道1時間半掛けて家内の病院へ通っています
横になってゆっくりする事は本当に稀です

貴兄の英語世界でのお悩み さぞかしご苦労な事だと推察いたします
ダイエーの中内さんは 聞く事は充分に出来ましたが 話す事は不得意でした
商談で通訳が付き 間違った通訳をすると 何時も嗜めていました
努力の人でしたから 人知れず勉強をしたのでしょう 社内の通用語も英語にしたらと提言するような人でした
は全くダメでした 従って外国人が来ると小さくなっていました
今になってもう1回勉強したいと思ってNHKの教育番組を聞くのですが 長続きしません

貴兄の場合 余りにも自分を追い込んでは居られませんか 英語の場合でもそうではないのですか
完璧主義者であるのかも知れません それが怒りっぽくなられる原因にもなってはいないでしょうか
私も或る程度几帳面な所がありますので そうしなければいけないと思い 懸命に努力する時があります
トコトンやっても出来ないと 疲れてしまいます 最後はこれだけしてもダメなら努力したのだから 仕方が無いと諦める事にしています そうしなければ倒れてしまうからです
言葉を変えれば小利口な所を持っているのでしょう
でもいい加減な所が救ってくれました

カナダでの公用語は英語とフランス語でしょうから その国で生きて行かれるには公用語を習得されるのは当然でしょう でも今更と考えて 敢えて生活される方が宜しいのではないでしょか
 私もこの年になって学びたい事が山ほどあります 然し根気がありません 本屋でも立ち読みして 精読
したいと思って買ってくるのですが 家に帰るとツンドクです パソコンでも然りです
 先生に付いて時々は習うのですが その他参考書をいっぱい買って来ますが モノにはなった試しがありません
今流行の携帯電話でもそうです 新機種が次から次へと売り出されます それを追っかけて買い換えるのですが 満足に使いこなせた事はありません 今のフォーマも単なる電話としか使っていません 所詮無理なのです
ゴルフも同様です 40年プレイして未だ100を切れません 練習嫌いです 上手くなりたいと思っても 練習に通う気力もありませんし 馬鹿馬鹿しい気持ちもあります
遊びと公用語は全然異質な問題ですが 余り思い詰めない方がお身体には宜しいですよ

仕事でもそうでしたが なるようにしかならないと割り切ったお陰で 今まで長生きしたようです

家内の病院へ通うのも辛い仕事です 行く時は今日は奇跡が起きていないかと思うのですが 帰りは打ち鬻がれて 暗い気持ちで運転します 毎朝仏壇(家内の実家は絶えてしまいましたので 私の実家と家内の実家の位牌が一緒に入っています)に手を合わせては力を貸して欲しいと祈るのですが 望みを叶えてくれません 四六時中家内の事が頭にありますものの それに拘ると自分がおかしくなります 気持ちの切り替えは割り切るより仕方がありません

どうか余りご自分を責められずにゆっくりされて下さい

「カナダこのごろ」拝見しました 上村逸志ちゃんの事を書かれていました 俊一郎さんも逸志さんも
男師付属時代より逞しくなって居られます 日郎さんは変わりません 吉牟田 直さんも変わりません
横小路 昇さんは多分に新聞記者の感じがしました 懐かしい時代は遠い昔の事になりました
それでも会うと直ぐ昔に戻ります

それではお元気でお過ごし下さい 又。
(05-10-26)
第三の悩みです(05-10-23)[s]

再三の悩みの訴えごとでお目を汚したり、お耳を煩わすことになりますが、ご寛恕のほど、何卒お願い致します。
三番目の悩みというのは、最近とみに衰えてきた、英語によるコミュニケーション能力です。 もともと私は外国語が不得手で、会話による意思疎通が苦手なのですが、30代の頃、輸入の仕事をしていて、ますます英語力の不適当なことを痛感する様になりました。
当時子供は既に3人おり、今更学校にも行けない情況でしたが、英国大使館員から、「BBCの日本語部に行ってみないか」と声をかけられました。 英語の総本山のようなBBCなら黙っていても上手くなるだろうと思ったのですが、黙っていたらやはり上手くなりませんでした。 日本語部長は英国人でしたが、柔道六段で日本語の達人。 セクレタリーも日本人の英語に馴れていますから、私のブロークンイングリッシュをみなまで言わせず、「I see what you mean」と腰を折ります。 同僚は、NHKや民放から出向してきたジャーナリスト。 彼らの指導を受けて、日本語は 唐芋普通語から多少マシになったでしょうか。
ロンドンにいた間に双子が生まれました。 BBCには5年いたのですが、5人の幼児を抱えて日本に帰るのは容易ではないと考えました。 そこでカナダに移住を申請したのですが、幸い受入れて貰えました。 そういう次第で1974年43の時に、仕事の当ても無く、頼るべき伝手もないまま、バンクーバー空港に降立ちました。 
移民の第一歩は掘建て小屋からスタートと観念して、何でもやる気でいたのですが、CBCで日本向け番組を試みることになり、私が幸運にもその仕事を一人でやらせて貰うことになりました。 しかし1991年に予算カットで日本語放送は廃止。 私はクビになったと思って東京に行き、その際新宿での同窓会で貴兄にお目にかかったのでした。 しかし実際はそれからさらに5年間CBCに置いて貰い、65の定年までご厄介になったのでした。
その10年位前からです、無闇に腹が立つようになったのは。 秀吉の様な人でも若い頃は闊達だったのに、年をとってから気難しくなり、千利休に詰め腹を切らせる様な性格になったと聞き、私も老年になって前頭葉が萎縮したのではないかと、スキャンして貰ったのですが、異常なし。 心理学者、神経科医、精神科医に診て貰っても、欝とか分裂症とかいう病名が出てこないまま今日に到っています。
70を越してから、英語を読むのが億劫になってきました。 特に口語英語の理解が困難になっています。 うちの子供達がキョウダイで話し合う会話は昔から判らなかったのですが、私は一家の長。 必要があれば家内に訊けば良しと、超然としていましたが、家族以外ではそうはいきません。 今でも知らない人には「ノースピークイングリッシュ」「アイドントサッパリノー」と逃げているのですが、情ないことです。
眼も悪い、ヒアリングも出来ない、話しも出来ないと、三重苦ですが、英語で思うように表現できないことも、怒りの鬱積する原因となっています。 
しかし、英語国では、英語は人格の一部です。 英語が出来ないのは精神障害者と同じです。 ヨハネ伝の最初の聖句は、「初めに言葉ありき」ですが、「言葉は神なりき」と続きます。 この場合「言葉」とは「基督」のことだそうですが、それにしても重みのある聖句です。
そういう意味で、私はカナダでは人格欠陥者。 もし廃人にでもなればどうなるか。
海外に住んで良かったと思う反面、これからの数年は困難を極めるぞと、戦々恐々です。
(05-10-23)
目がご不自由ではさぞお困りでしょうね(05-10-22)[n]

貴兄のメールでは驚きの連続です

目がご不自由と伺ってさぞ大変な事だろうと思いました
私は未だ老眼鏡を持っていません 新聞が裸眼で読めるのです と言うのは 左1.0右0.5とアンバランスなのです 従って新聞を含めて読書は右目で見ているのだそうです
車の運転は左目が活躍しているのだそうです 
5年程前になるでしょうか中耳炎を患いました 耳が痛くなるなんて経験した事が無く 先ず右耳が痛くなり暫くして今度は左耳がおかしくなり 慌てて医者に掛かりましたら 中程度の中耳炎との診断で その結果右耳が高音が聞こえ難くなりました
日常生活では不自由な事はありませんが 健康診断ではその事が指摘されます
加齢と共に色々な病気が襲って来るものです
貴兄のお話を伺うと 私の場合は病気とは言えないような気がいたします
よく言われる事ですが 高年齢になりましたので 病気と共生して生きて行くより 方法が無さそうです
大変でしょうが不自由を克服されて下さい

息子さんのお嫁さんは矢張り大塚邦彦さんのお嬢さんでしたか 彼に聞いていただくと分りますが 取引先の社長だったと言う事だけでなく それ以上の関係でした 前回も申し上げましたが ダイエーとハウス食品さんの間が険悪になった時に 当時の大塚副社長さんの懸命な働きで 修復が為されました
今は取引先の中でも最右翼の協力メーカーです 謙虚な方で 私が辞めます時も 態々招宴に預かりました
忘れられない方の1人です

>恒川民雄さんは慶応の後輩ですが 彼は見習いの時に 私の売場に配属になりました 
声の大きな人で 売場の担当者が感心していました 本採用になってから 売場が変わりましたが 何時の間にか居なくなりました
そうでしたか 貴兄のお世話があったのでしょうか 亡くなった事は知りませんでした

縁とは異なるもので 貴兄とは色々と繋がりがありますね 驚きの連続です
今日は土曜日ですが 高校時代の仲間と 横浜の馬車道のスナックに集まり 飲み会をして参りました
高校は宮崎でしたが 毎月1回 仲良しが集まっては 話し合っています
外地では 中々こんな会も出来ないでしょうね ストレスの解消になります

どうかご負担にならない程度にメールして下さい 私の方は勝手に送ります
くれぐれもお大事に お元気で。
{05-10-22)
再度バンクーバーから 重松です(05-10-21)[s]

私も、自分の悩みを打明けることのできる友を見出して、嬉しく思っているところです。

大塚邦彦さんとお知り合いだったのですか。 私が大塚さんにお目にかかったのは4年前。 長男の謙が大塚さんの次女の早基子と結婚する時で、その際は高石のお宅にお邪魔し、また東京で挙式の時も、お目にかかりました。 またそれから数週間後、バンクーバーの教会で、英語による式が行われた際も、大塚御夫妻に来ていただきました。

大塚さんは、名前は忘れましたが、ハウスの前身のOO商店に入社し、社長が日航機の事故で亡くなられた後、社長職を引き継がれたと聞いています。 

早基子さんから聞いたのですが、大塚さんは、毎朝午前4時に起きて手紙を書かれるとか。 ご自身はビデオの操作も出来ないそうで、ワープロやパソコンは論外。 ですから手書きで書状を認められるのでしょうが、その辺が、ハウスの秘密兵器ではなかっただろうかと愚考するのです。  

私の悩みはまだあります。 視力が劣化し、新聞も本も読めなくなってしまったことです。 食卓の上の料理もよく見えず、箸でつまんで口に入れ、初めて何を食べているか知るといった具合です。 

普段は霧に包まれているわけですが、公共の大きな建物に入ると白煙が生じ、一人で空港の中も歩けません。 白内障と緑内障、それに網膜の裏側の神経と、3人の眼科医にかかっているのですが、最近は鍼も試みています。 天候と日と時間によって、霧の濃さが異なります。 年を取って盲目になろうとは、計算外でした。

パソコンは、モニターの字を大きく出来るので、今の所支障なくEメールを読んだり書いたりしています。 「カナダこのごろ」は、もっぱらラヂオとテレビの音声に頼って書いているのが楽屋裏の事情です。

私がまだ日本にいた30代の頃、医者が家内に「ご主人は50まで生きられませんよ」と耳打ちされたそうです。 それからイギリスに渡り、水銀を含まないカリフォルニア米を食べていたせいか、日本に一時帰国して同じ医者に診てもらったら「もう大丈夫」と言われました。 それと、BBCの仕事はストレスが全く無く、ハッピーだったからでしょう。 

しかし私の両親も若くして死に、伯父達も50代前半で亡くなっていますから、74まで生きたのはオーバーデューだと思っています。

三越にいた恒川民雄君とは親しかったのですが、彼の転職には私も重々責任があるので、彼が若くして白血病で亡くなったという報せをロンドンで受け取った時は、痛恨の極みで言葉を失いました。 富山に戻られた未亡人とその遺児達はどうされたでしょうか。

恒川君も満尾君も頑強な身体の持主だったのに、先立たれたのは意想外でした。 私自身も先のことは判りません。 人生は後ろ向きに歩いているようなものだと思います。 背中に目は無いのですから、何が待ち構えているか判りません。 ただ自分の歩んできた道を見つめて、これからも同じ様な道程が続くものと信じて歩き続ける外ありません。 日本が僅か3年半の戦争ですべてを失った時、背中に目が無かったことが悔やまれます。 それにしても、あの3年半は長かったですね。
(05-10-21)
有難いアドバイスを戴きました(05-10-20)[n]

お心の篭った励ましのお言葉身に沁みて有難く頂戴しました

貴兄に仰るような悩みがあるなど想像もいたしませんでした
私は表面的には平静を保ってお付き合いをしていますので皆さんは感じないでしょうけれど 独りになると涙を流し泣きます 弱虫なのです そしてこれは誰にも分って戴けない苦しみです
あの事故さえなければと恨みます 運転をしたゼミの同輩は下手糞な運転で皆が乗らないようにしていたのだそうです でも起こそうとして起こした事故ではありません 分っていても あの事故が無かったらと 屡思います
幸せを絵に描いたような家庭だと言われていたのが 一転して暗い家庭に陥りました

でも今考えなくてはならない事は 家内を少しでも回復させる事です 20年間医者と付き合い この世界は医療の面からも 病院の制度の上からも 遅れていると感じます
 最初に掛かった北里大学病院では 入院時には3ヶ月で治るとの診断でしたが 診立て違いで長引き 挙句の果てには不安が増長して騒ぎましたので 薬漬けにされました
これ以上為す方法が無いと言われ コネクションを頼って慶応病院の隣の東京電力病院へ転院させました
精神科は外来しかないのですが 引き受けて貰って 約10年入院しました 医者は慶応病院から来るのです
強い薬を抜いて 徐々に弱い薬を与えた事が良かったのか 好転しました 唯私の仕事が忙しかった為 後半は退院可でしたが 家に置くより安全と思い 預けたのが実情でした
仕事が一段落した時を見計らって退院し 約3年間は普通の生活が出来ました 旅行もハワイ、九州、北海道と出掛けたのですが 再発いたしました
専門家に相談したりしたのですが 此方が望む医者と病院が見付かりません 東京電力病院も事情が変わり
再度入院させる事は出来ませんでした 或る程度我慢して 今入院している病院を見付けましたが 医者に不満があります
貴兄のお話にもあったように若い医者なのです この病気は或る程度の経験が必要ですし 教科書的な治療法では 夫々症状の違う患者には対応が出来ません 20年も家内の病気を見ていますと 素人なりに見当が付きます
今の状態も明らかに薬の使い過ぎで 且つ合っていません それを医者に言うのですが聞き入れてくれません
当節流行のセカンド・オピニオンにも聴いてみました処 私の意見と同じでした

又々長話をいたしました でも家内の為にそして罪滅ぼしの意味もあって頑張ります ご安心下さい

流通科学大学の学長さんをされた永谷さんは私がダイエーを辞め同時に流通科学大学の常務理事を辞めてから暫くして中内さんが連れて来たと聞いています 中内さんが息子に理事長職を譲ってから息子が実権を握り内紛が起きて辞められたと仄聞しました 本当かどうかは分りません 今回中内さんが亡くなった事により大学の存立そのものを懸念しています 少子化の波が押し寄せますし金看板の中内さんが居ないとなると一体どうなるのでしょうか 心配していますがもう私の力ではどうする事も出来ません

息子さんのお嫁さんの実家はハウス食品の大塚さんではありませんか 若しそうならば私とは深い縁があります
ハウス食品はダイエーの主力取引先ですが 商売の上でトラブルがあり当時副社長だった大塚さんから相談を受けて 私が中内さんを説得して 良好な関係に修復しました
 若し大塚さんの娘さんでしたら奇縁ですね

台風20号は幸いにも関東地方を避けて八丈島から東方に去って行きました 昨日からやっと秋らしい陽気となりました 今冬はどんな事になりますでしょうか 温暖化傾向で一昔前の厳しい寒さは無くなりました
どうかお身体には充分気を付けられてお過ごし下さい お元気で。
(05-10-20)
私もまわりに悩みをかけています(05-10-20)[s]

奥様のご病気は、心の痛むことですが、何と言ってお慰めの言葉を申し上げたらよいのか判りません。

貴兄にとって、重い十字架となっているわけですね。 私のまわりを見回しても、それぞれ十字架を担っている家庭が多いのに、改めて驚かされます。  

メールの一節を拝見して、山田太一のテレビドラマを思い出しました。 アルツハイマーになった妻が、主人公のやさしい夫の手を払いのけるようになるのです。 最も愛する人、最も親しい人ほど拒否するようになるのが、アルツハイマーの一つの特徴でしょうか。 悲しいことですね。 知らない人には、それほどの拒絶反応は示さない。  もしそれが本当だとしたら、まわりの人の苦しみも倍加される悲しいできごとですね。

うちの場合は、私が妻の十字架になっているようです。 過去の亡霊が、時と所を構わず、突然噴出するのですから。 2人でテーブルを囲んでいる時とか、車の助手席に乗っている時でも、私の怒りが電気のように伝わるらしく、「今怒っているでしょう」と図星です。 

また私はよく独り言を言うのですが、家内に「何ですか」と訊かれます。 まわりに人がいても、騒がしくてはっきり聞こえないと思えば、「馬鹿野郎」とつぶやきます。 それも特定の人についてではなく、亡霊と自分自身に対して悪態をつくのです。

1人でいる時は、もっと大きな声で、怒声、罵声を発散します。 娘から「何よ、そのバックオーライと言うのは?」と訊かれて、「さてはバレタか」とバツの悪い思いをすることもあります。

今まで2人の心理学者に長期カウンセリングを受けたのですが、つい世間話に流れて無駄な時間を過ごしてしまいました。 2人の神経科医にも診てもらったのですが、お手上げで、日本人の精神科医に紹介されました。

とても真面目なシッカリした地方出身の女医さんでしたが、何しろ娘と同じ年。 昭和一桁の薩摩男としては、平成の若い女医に相談するのは、抵抗がありました。 

ある女医のエッセーで、診療所のベッドで苦悶していた患者に近づいたところ、「なんじゃ、オナゴの医者か!」と突然起き上がり病室から走り去ったという話を読んで、私の精神科医に対する偏見と同じだと、その男に共感を抱きました。 

その精神科医には10回診てもらったのですが、こちらに噛みあおうとする心の姿勢が無いのですから、やはり無駄に終わりました。

私も貴兄と同じで、子育ては妻に任せっ放し。 夫は身体だけそこにいるが心は留守だったのですから、妻はシングルマザーと同様な苦労でした。 しかも外国での暮らしです。 妻は子供の無い人が羨ましかったかもしれません。 しかしその子供達も成人し、やっと一息つけると思ったら、今度は夫が、奇声、蛮声を上げる。 さぞ不愉快でしょうが、まあ病気だからと思って、我慢しているのでしょう。

そんな次第で、クレージーな父親は、子供にも心配をかけているような有様です。 我が家も、ディスファンクショナルな家庭の一つですが、完全な家庭というのは滅多に無いのでしょうね。
(05-10-20)
再びバンクーバーから[s]

バンクーバーに来られたのは四半世紀前ですか。 その頃と違うのは、人口の構成でしょうね。 カナダは英語とフランス語が公用語ですが、バンクーバーでは、英語と中国語の二ヶ国語が幅をきかせています。 昔は日本人も中国人も二等市民の扱いでしたが、香港が中国に返還された頃から、香港の金持ちが大勢カナダに移住してきてイメージが変わり、東洋人の我々には住みやすい所となってきました。 以前は私も中国人に間違えられると、ムキになって否定したものですが、この頃は「金持ちに間違えられたか」と、風に流すことにしました。 

ブリティッシュコロンビア大学(UBC)の教授だった永谷敬三先生から、「神戸に行って数年教えることになったから、その留守宅に住む気はないか」という手紙を貰ったのが1997年。 渡りに船とモントリオールから引っ越して来たのですが、その手紙によると、「この辺は香港ストリートといって、中国人のミリオンダラーの邸ばかり」という事でした。

来てみると成る程その通り。 どの家も7寝室5浴室3~4台の車庫つきの豪邸ばかり。 永谷先生の家は、その中でひっそりと古風なたたずまいを残して建っていました。 永谷先生も、もし大蔵省を退官しないで残っていたら、次官か日銀総裁になれたかもしれないのに、あたら大学教授に転身したので、この時代がかった住まいに腰をすえることになったのでしょう。 それにしても、経済学者とはお金儲けの専門家かと思ったら、都留重人がそのような妄言を退けていましたが、永谷先生の簡素な生き方も、カナダ経済学会副会長の理論と実践の異なる実例を示すものでしょう。

実は店子の私は家主に、この8年間1回きりしか会っていません。 流通科学大学の学長の任期は2007年までと聞いていたのですが、今年末までということに変わったということは、何かあったのでしょう。

中内さんはナポレオンでしたね。 大学がセントヘレナ島だったということでしょうか。 その大学を訪れた直後急逝されたというのも、中内さんの魂魄が大学に留まって見守っているような気がします。

それにしても、貴兄の尽力で実現した大学とは驚きました。 息子の嫁の父親も、ハウス食品を辞めてから、評議員として講壇に立っていたようです。

家内の父親は戦後製紙会社をこしらえ、そこそこやっていたのですが、借金がふくらみ、昭和30年代に退陣しました。 その尻拭いに乗り込んだ本州製紙の幹部は、創業者のことを悪し様に言っていましたが、再建は難しかったようです。 

ダイエーの再建に乗り出した新経営者も、高らかにラッパを吹いていますが、創業者の大志を受け継ぐどころか、あえて創業者を否定する路線を歩もうとしているようで、大言壮語が恥をかかなければいいのですが。
早速にメールを戴き有難うございました(05-10-19)[n]

重松 彬さんの近況を興味深く拝見しました
バンクーバーには1980年頃、関西経済同友会の海外ツアーで一度伺った事があります 
確かフォーシーズンに泊まりましたが1泊で移動しましたので 綺麗な街という印象しか残っていません
それと新渡戸稲造さんの碑を覚えています
それにしても海外へ旅行で行くのは良いのですが 定住するとなると相当な決意が要る事でしょう
どうして貴兄が定住されるようになったのか分かりませんが 私が仕えたダイエーの中内さんは 一面ではコスモポリタンでしたから 海外に住みたいと良く話していました 毎月1回程度出ていましたが 下駄履きで行くというような感覚の持ち主でした 三越からダイエーに変わった時に 中内さんの配慮で 2ヶ月程米国に滞在して歩き回りましたが カルチュアショックを受けました

家内の病気の引き金になったのは 息子の事故でしたが それまでは病気一つせず元気でした
私は中内さんが大学を創りたいというので その設立の責任者として忙しい毎日を送っていました
当日も 或る人を教授として迎える為に口説いていて 帰宅が午前様となりました
帰ったら 家の鉄柵が開け放され タクシーが入っていました 家内から事故を聞かされ 3時間掛けて伊豆の伊東市の山の上にある病院へ駆けつけましたら 手術は終わり 息子は元気な様子でした
男親は命に別状無いとなると それ以上は心配しないのですが 家内は事故を起こした友人に喰って掛かり
 慌てて止めたのでしたが 母親としては寧ろ当然だったかもしれません 複雑骨折と創傷で全治6ヶ月掛かりましたが 幸い傷跡は残りましたものの 後遺症も無く完治しました 慶応の経済学部でゼミの合宿が箱根であり 参加したのでした

1ヵ月後位から家内が疲れたと言い始めました 夏の暑いときに藤沢から伊東まで毎日電車で通ったのですから 精根尽き果てたのでしょう 段々と言動がおかしくなり 北里大学病院へ入院したのが始まりとなりましたが 医者から病状の説明があった時に 言い難い事だがと前置きをして「奥さんの気持ちの中にご主人に対する敵意みたいなものがある どんな生活をしていたのですか」と問われ驚きました
昭和一桁世代で 且つ鹿児島の教育を受けた私は サラリーマンとして家庭を顧みることなく 只管会社の為に働いて来ました 特に転職した私にとっては 仕事は大事でした  恐らく家内は話し相手も無く 子供は一人でしたから 子供が彼女の生き甲斐だったのでしょう それが大怪我をしたのですから 独りで思
い詰めたのでしょう
後悔は先に立たずです 優しさはもっていても 薩摩隼人は表には出せません
20年間の内に3年程自宅へ帰って来た期間がありました 良かったと思ったのも束の間でした 再入院という事になった時は呆然としました
今は週に3回通っては2~3時間相手をしている生活です 何とか治して家に連れて帰りたいと願っているのですが 段々と悪い方向に進んでいるように見受けます でも頑張ります

長々とお話をしました 加齢と共に昔が懐かしく色々な会に出掛けては話すのを楽しみにしています
幸い友達に恵まれ支えられています 今回も北元さんが色々と骨を折ってくれお陰で楽しめました
地元に大黒柱が居ないと会は成り立ちません 幸い彼が居るから纏まります 貴兄の場合は外地ですから話す相手に苦労して居られるのではないでしょうか
毎日が日曜日ですから時間はあります 時々ご報告を兼ねてメールさせて戴きます
どうかお元気でお過ごし下さい 又。
(05-10-19)
野村様 私の近況です(05-10-19)[s]

近況をお伝えいただき、嬉しく拝読しました。

それにしても、20年も御一人住まいとは驚きました。 1991年、新宿でのクラス会でお目にかかった折のにこやかな温顔にはそのような気配は感じられませんでした。 あの時も貴兄の頭は見事な銀髪。 今は叡智のシンボルの白髪ですね。 私は後頭部がすっかり禿げて、その節鹿児島に行った折、満尾兄が「禿げたなあ!」と嘆声をあげたのが今でも耳の中で響いています。

奥様が長年入院なさっておられるのでは大変ですね。 「欝」という病気も、私は「気が滅入ること」ぐらいに考えていたのですが、「機関車が部屋の中に驀進してきて撥ね飛ばされる感じだ」と、鬱病の人達が言うのを聞いて驚きました。

実は、私は60ぐらいから腹が立つようになり、「これはおかしい」と、心理学者や精神科医に診てもらったのですが結論が出ません。  年を取れば円熟して穏やかになりそうなものですが、私の場合は、70過ぎてから、過去の不愉快な記憶が、一瞬稲妻のように、何の関連もなく、浮かんでくるのです。 それも沼のメタンガスのようにブクブクと噴き出してくるので、車の運転もやめました。 

私には子供が5人(男2、女3)いたので、カナダに移住したのですが、その子供達利も皆30代。 孫は4人ですが、まだよちよち歩きです。 今は糟糠の妻と二人暮しですが、妻はバンクーバーで牧師をしている長男の教会で、何かとお手伝いに明け暮れています。

年金生活の私は、自宅にいて、コンピューターの前に坐り、「カナダこのごろ」というメールマガジンを不特定少数の人に配信しています。

橘田さんは存じ上げておりません。 弟の和もバンクーバーに住んで絵を描いていますが、「来客なし、来信なし、架電なしの毎日だよ」と、三田会に参加することもなく、兄弟で世捨て人の暮らしを続けています。

ではまたのお便りをお待ちしています。
(05-10-19)
懐かしい方からメールを戴きました(05-10-17)[n]

いや驚きました 重松 彬さんからメールを戴くとは
実は男師付属の同窓会があり 近くに住む後藤 日郎さんから誘いがあり参加して参りました
日郎さんは神奈川県の大和市に住み私は隣町の藤沢市なものですから 時々お誘い があり 飲み会をしています 彼は昔と全く変わらず髪も黒々ですが 私は真っ白です
他ならぬ日郎さんからのお誘いであり 東京からの参加者が少ないというものですから 鹿児島へ出掛けた次第でした
北元、上村、横小路さんに奥田(旧姓成友)さんが北九州からそれと日郎さんと私が関東から  遅れて吉牟田さんが参加 合計で7名が19年度卒業生でした 現役の生徒の吹奏楽団と合唱隊が演奏と歌を聞かせてくれましたが昔の校歌、男師付属行進曲を聞いて大半の人が涙していました
戦争中の数々の想い出ももう60年以上も昔の事となりましたが何時までも忘れられないものです
2日間前夜祭も含めて北元さんが仕切ってくれました それはそれは楽しい2日間でした
天文館通りもすっかり変わりました アキ洋裁店も今は無くこの辺りだったなぁと感慨深く眺めました
2階に上がって当時は珍しかった蓄電式の懐中電灯を弄くった覚えがあります
再来年は我々が同窓会の当番役だそうです 果たしてそれまで元気に居られるかな と皆で話したのでしたが
母校の為にやらない訳には行かないでしょう その時は貴兄もどうか帰国されご出席をお願いいたします
ご家族はどうして居られるのでしょうか
私の家内はもう20年も入院しています  独り息子が大学3年の時箱根で交通事故に遭いその看病に疲れて倒れ鬱状態が続いています 息子は東京で生活、2人の孫(女、男)がいます
 従って私は独り住まいですが 勝手気ままな生活が送れる反面 不都合な事も多々あります
バンクーバーには大学の同級生の橘田 宣夫さんが居ます 元東急電鉄に勤め五島昇さんに可愛がられた人ですが ハワイからサンフランシスコに渡り 東急ホテルの建設に携った男です 
時々帰国しては会って旧交を温かめて居ますが お会いになった事はありませんか 住まいは世田谷の奥沢でした
たった今鹿児島から帰宅してメールを見て驚いて返信しました これを機会にメル友になりましょう
どうかお身体には充分気を付けられてお過ごし下さい 機会を見て情報をお送りし
ます
お元気で (05-10-17)
バンクーバーの重松です(05-10-17)[s]

北元兄から貴兄のメールアドレスを頂戴したので、突然ですがメールを送らせていただきます。

私は1997からバンクーバーに住んでおります。 8年間、流通科学大学学長の永谷先生の家を借りて住んでいましたが、永谷先生が近く帰国するというので、12月に都心のアパートに引っ越す予定です。

40年近く前になりますが、貴兄から附属のクラスの写真を送っていただいたことがありました。 その時は戴きっ放しでろくにお礼も申し上げなかったことを思い出すと、「失礼したなあ」と申し訳ない気持ちになります。

私は1996年モントリオールで退職し、それ以来バンクーバーで啼かず飛ばずの暮らしをしています。 北元兄とはメールのやりとりをしていますが、今日彼から頂戴した便りによると、同窓会は盛会だったそうで、羨ましく、懐かしく思っているところです。

もしお時間がありましたら、メールでもいただければ幸甚です。