弟が移民としては先輩です
(05-11-25)[s]
先日のお便りの中で、後藤日郎兄の黒髪が今でもフサフサしているとありましたが、70代半ばになっても、若い人より豊かな髪というのは凄いことです。
もう40年位前になりましょうか。 東京で附属の旧友達が集った時のことです。 帰ろうとして玄関で日郎兄と並んで靴を履いていると、後に立った太田兄が、「おイ、そげんフサフサしちょったらいかん。 シゲマッ位で丁度よかとじゃが」と言います。 私は30代から薄くなっていたのですが、「ちょうどよか」と言われたのは、これが初めてで最後です。 日郎兄は今も昔も変わらないわけですね。
お宅から茅ヶ崎まで15分とは、意外に近いのですね。 鵠沼には弟も短い間でしたが下宿していたこともあり、会社の寮もあったので、「ぶらり途中下車の旅」に湘南沿線が出てくると懐かしくみています。
弟の和は、附属で2年下でしたが、自他ともに認める劣等生。 ある時まわりに唆されて、担任の今井先生に、「もっと点数をください」と直訴しました。 先生もその時だけは甘い点を下さったようです。
我々より一年上に、松村さんという秀才がいましたが、ご存知ですか。 この松村さんは、知能テストでは抜群の点で話題になったのですが、その気があれば一高でも三高でも入れたことでしょう。 それがどういうわけか鹿大を選んで、鹿児島に留まっておられました。 そして弟の家庭教師を引き受けてくださったのです。
谷山のラサール高校にいた弟は、松村さんのおかげで、慶應高校に編入でき、無試験で経済学部に進んだのには驚きました。
両親の知人に、「和ちゃんもいよいよ角帽ね」と言われて、本人は苦笑していましたが、南日本新聞の社員でも一橋のことを「イチハシ大学」という土地柄です。 ご存知なかったのも無理はありません。
卒業して暫く岩井産業に勤めましたが、間もなく中共貿易のダミーを始めました。 大手商社がまだ参入できなかった頃です。 しかし文化革命が始まり、不気味な情勢となってきました。
その頃、視察団に同行してカナダを旅行。 亀戸の団地に住んでいた弟は、「この地球にこんな暮らしをしている人達もいるのか」と驚き、移住を決意。 しかし特技がありません。 そこで、鍼灸の夜学に通い出しました。
1970年カナダ大使館に移住を申請したところ、幸い許可になり、早速バンクーバーに一家で移住。 ほんの暫くの間鍼の治療もやっていたのですが、東銀の駐在員事務所に雇われて、サラリーマン生活に戻り、定年までそこで勤めました。
私は1968年からロンドンに居たのですが、BBCの休暇で一時帰国する際、バンクーバーに寄ってみました。 みると、なかなか結構な、ゆとりのある暮らしです。 それなら私達も、という気になりました。
そこでロンドンのカナダ大使館に1973年申請。 翌年に移住しました。
弟は現在うちから15分位車で行った所に住んでいますが、絵描き三昧の生活。 それに孫のベビーシッティングで忙しく、世捨て人の境遇であることは、兄の私と同じです。
子供の頃は、兄が弟をうるさがって、仲が悪かったのですが、今はほかに身寄りも無く、年寄りになってきたので、仲良くやっています。
鹿児島の唐湊にあった両親の墓も、弟が整理し、両親の骨は、バンクーバーの墓地に眠っています。 そういうわけで、墓参りという口実も無くなりました。 (05-11-25)
(05-11-25)[s]
先日のお便りの中で、後藤日郎兄の黒髪が今でもフサフサしているとありましたが、70代半ばになっても、若い人より豊かな髪というのは凄いことです。
もう40年位前になりましょうか。 東京で附属の旧友達が集った時のことです。 帰ろうとして玄関で日郎兄と並んで靴を履いていると、後に立った太田兄が、「おイ、そげんフサフサしちょったらいかん。 シゲマッ位で丁度よかとじゃが」と言います。 私は30代から薄くなっていたのですが、「ちょうどよか」と言われたのは、これが初めてで最後です。 日郎兄は今も昔も変わらないわけですね。
お宅から茅ヶ崎まで15分とは、意外に近いのですね。 鵠沼には弟も短い間でしたが下宿していたこともあり、会社の寮もあったので、「ぶらり途中下車の旅」に湘南沿線が出てくると懐かしくみています。
弟の和は、附属で2年下でしたが、自他ともに認める劣等生。 ある時まわりに唆されて、担任の今井先生に、「もっと点数をください」と直訴しました。 先生もその時だけは甘い点を下さったようです。
我々より一年上に、松村さんという秀才がいましたが、ご存知ですか。 この松村さんは、知能テストでは抜群の点で話題になったのですが、その気があれば一高でも三高でも入れたことでしょう。 それがどういうわけか鹿大を選んで、鹿児島に留まっておられました。 そして弟の家庭教師を引き受けてくださったのです。
谷山のラサール高校にいた弟は、松村さんのおかげで、慶應高校に編入でき、無試験で経済学部に進んだのには驚きました。
両親の知人に、「和ちゃんもいよいよ角帽ね」と言われて、本人は苦笑していましたが、南日本新聞の社員でも一橋のことを「イチハシ大学」という土地柄です。 ご存知なかったのも無理はありません。
卒業して暫く岩井産業に勤めましたが、間もなく中共貿易のダミーを始めました。 大手商社がまだ参入できなかった頃です。 しかし文化革命が始まり、不気味な情勢となってきました。
その頃、視察団に同行してカナダを旅行。 亀戸の団地に住んでいた弟は、「この地球にこんな暮らしをしている人達もいるのか」と驚き、移住を決意。 しかし特技がありません。 そこで、鍼灸の夜学に通い出しました。
1970年カナダ大使館に移住を申請したところ、幸い許可になり、早速バンクーバーに一家で移住。 ほんの暫くの間鍼の治療もやっていたのですが、東銀の駐在員事務所に雇われて、サラリーマン生活に戻り、定年までそこで勤めました。
私は1968年からロンドンに居たのですが、BBCの休暇で一時帰国する際、バンクーバーに寄ってみました。 みると、なかなか結構な、ゆとりのある暮らしです。 それなら私達も、という気になりました。
そこでロンドンのカナダ大使館に1973年申請。 翌年に移住しました。
弟は現在うちから15分位車で行った所に住んでいますが、絵描き三昧の生活。 それに孫のベビーシッティングで忙しく、世捨て人の境遇であることは、兄の私と同じです。
子供の頃は、兄が弟をうるさがって、仲が悪かったのですが、今はほかに身寄りも無く、年寄りになってきたので、仲良くやっています。
鹿児島の唐湊にあった両親の墓も、弟が整理し、両親の骨は、バンクーバーの墓地に眠っています。 そういうわけで、墓参りという口実も無くなりました。 (05-11-25)

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