私の中学時代は軍国主義から混乱への転換期でした(05-11-17)[s]
私の視力が弱いことを気遣って、メールの字を大きくしようかという有難いご提案ですが、感謝の限りです。 そうですね。 14ポイント位だったら、読み易いかと思うのですが、お手数をおかけして恐縮です。 眼の治療も複数の医者から受けているのですが、お天気と睡眠の加減で、よく見えたり、霧がかかったりで、悪化はしていません。 しかし奇跡もまだです。
貴兄は、延岡から宮崎に移られたのですか。 私は、6月17日の空襲の夜は、二中のそばの、昔父が育った祖父母の旧居に住んでいました。 暫く防空壕にひそんでいたのですが、夜空が真っ赤に染まり、まわりが火の海になったので、逃げ出しました。 二中の窓ガラスも全面その火を反射して、まるで校舎そのものが燃えているかのように見えました。
文字通り焼け出されて、祖母や伯父の居た愛媛県の小松町に移りました。 そこで終戦を迎えたのですが、敗戦の日も、石鎚山の山容は変わらず、「国やぶれて山河あり」という言葉が耳の中で響いていました。 まぶしい陽光の中で、二人の青年が高笑いしているのが異様に思えました。 しかしもう艦載機に銃撃されることはないと、安堵の気持ちをもったことも覚えています。
戦争も終わったので、鹿児島へ帰ることにし、貨車やすし詰めの列車で焼け野が原の故郷に戻りました。。 しかし家は無く、二等兵として終戦の年に召集された父の消息も判らず、知人を頼って、薩北の大口町に落ち着きました。
やがて父は中国から無事復員してきましたが、私は学校にも行かず、漱石全集を読み耽っていました。 そして新学期が始まる翌春、伊敷の旧兵舎にあった二中に復学しました。 当時二中の校長だった池田俊彦先生は、私の復学に渋ったと、後で父の旧師から聞かされ、驚きました。 親子でお世話になった恩師のおかげで、学校に戻れたのは幸いでした。
貴兄のような方が、配属将校にサーベルで殴られたり、職員室に立たされたとは、とても信じられません。 私も配属将校に散々殴られましたが、子供のような生徒を殴れば、アメリカに勝てるとでも思ったのか、あの頃の二中にも、理不尽な暴力教師がはびこっていました。
それが間もなく二高女と合併して甲南高校となったのですが、甲南の同期の卒業生も、東京で毎月集まって、コーラスの練習を行っているそうです。
貴兄が横浜で毎月お友達と旧交をあたためておられるのと似ていますが、彼らも懐旧の気持ちにそそられ、若い頃は音楽に見向きもしなかった人も、年とともに柔らかく熟した思いになり、集ってくるのでしょう。
附属で、我々より一年下の複式に、有村祐輔という生徒がいたのを覚えていませんか。 お兄さんの有村光平さんは、我々より一年上でした。
その有村君が、高校を出て横浜の波止場で働いていたのですが、芸大に入り、声楽家になりました。 ロンドンで出会った女性と結婚し、山梨の都留文科大学の教授になりました。 彼の主宰する「コールユー」に甲南の同窓生が集まり、練習を重ね、都内の演奏会に出場するほどの存在となっています。 私も東京にいれば参加していたことでしょう。
引越しの日も近づいてきますが、手をこまねいているばかりで、いざとなってから、慌てふためくことでしょう。 (05-11-17)
私の視力が弱いことを気遣って、メールの字を大きくしようかという有難いご提案ですが、感謝の限りです。 そうですね。 14ポイント位だったら、読み易いかと思うのですが、お手数をおかけして恐縮です。 眼の治療も複数の医者から受けているのですが、お天気と睡眠の加減で、よく見えたり、霧がかかったりで、悪化はしていません。 しかし奇跡もまだです。
貴兄は、延岡から宮崎に移られたのですか。 私は、6月17日の空襲の夜は、二中のそばの、昔父が育った祖父母の旧居に住んでいました。 暫く防空壕にひそんでいたのですが、夜空が真っ赤に染まり、まわりが火の海になったので、逃げ出しました。 二中の窓ガラスも全面その火を反射して、まるで校舎そのものが燃えているかのように見えました。
文字通り焼け出されて、祖母や伯父の居た愛媛県の小松町に移りました。 そこで終戦を迎えたのですが、敗戦の日も、石鎚山の山容は変わらず、「国やぶれて山河あり」という言葉が耳の中で響いていました。 まぶしい陽光の中で、二人の青年が高笑いしているのが異様に思えました。 しかしもう艦載機に銃撃されることはないと、安堵の気持ちをもったことも覚えています。
戦争も終わったので、鹿児島へ帰ることにし、貨車やすし詰めの列車で焼け野が原の故郷に戻りました。。 しかし家は無く、二等兵として終戦の年に召集された父の消息も判らず、知人を頼って、薩北の大口町に落ち着きました。
やがて父は中国から無事復員してきましたが、私は学校にも行かず、漱石全集を読み耽っていました。 そして新学期が始まる翌春、伊敷の旧兵舎にあった二中に復学しました。 当時二中の校長だった池田俊彦先生は、私の復学に渋ったと、後で父の旧師から聞かされ、驚きました。 親子でお世話になった恩師のおかげで、学校に戻れたのは幸いでした。
貴兄のような方が、配属将校にサーベルで殴られたり、職員室に立たされたとは、とても信じられません。 私も配属将校に散々殴られましたが、子供のような生徒を殴れば、アメリカに勝てるとでも思ったのか、あの頃の二中にも、理不尽な暴力教師がはびこっていました。
それが間もなく二高女と合併して甲南高校となったのですが、甲南の同期の卒業生も、東京で毎月集まって、コーラスの練習を行っているそうです。
貴兄が横浜で毎月お友達と旧交をあたためておられるのと似ていますが、彼らも懐旧の気持ちにそそられ、若い頃は音楽に見向きもしなかった人も、年とともに柔らかく熟した思いになり、集ってくるのでしょう。
附属で、我々より一年下の複式に、有村祐輔という生徒がいたのを覚えていませんか。 お兄さんの有村光平さんは、我々より一年上でした。
その有村君が、高校を出て横浜の波止場で働いていたのですが、芸大に入り、声楽家になりました。 ロンドンで出会った女性と結婚し、山梨の都留文科大学の教授になりました。 彼の主宰する「コールユー」に甲南の同窓生が集まり、練習を重ね、都内の演奏会に出場するほどの存在となっています。 私も東京にいれば参加していたことでしょう。
引越しの日も近づいてきますが、手をこまねいているばかりで、いざとなってから、慌てふためくことでしょう。 (05-11-17)

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