早速にメールを戴き有難うございました(05-10-19)[n]
重松 彬さんの近況を興味深く拝見しました
バンクーバーには1980年頃、関西経済同友会の海外ツアーで一度伺った事があります
確かフォーシーズンに泊まりましたが1泊で移動しましたので 綺麗な街という印象しか残っていません
それと新渡戸稲造さんの碑を覚えています
それにしても海外へ旅行で行くのは良いのですが 定住するとなると相当な決意が要る事でしょう
どうして貴兄が定住されるようになったのか分かりませんが 私が仕えたダイエーの中内さんは 一面ではコスモポリタンでしたから 海外に住みたいと良く話していました 毎月1回程度出ていましたが 下駄履きで行くというような感覚の持ち主でした 三越からダイエーに変わった時に 中内さんの配慮で 2ヶ月程米国に滞在して歩き回りましたが カルチュアショックを受けました
家内の病気の引き金になったのは 息子の事故でしたが それまでは病気一つせず元気でした
私は中内さんが大学を創りたいというので その設立の責任者として忙しい毎日を送っていました
当日も 或る人を教授として迎える為に口説いていて 帰宅が午前様となりました
帰ったら 家の鉄柵が開け放され タクシーが入っていました 家内から事故を聞かされ 3時間掛けて伊豆の伊東市の山の上にある病院へ駆けつけましたら 手術は終わり 息子は元気な様子でした
男親は命に別状無いとなると それ以上は心配しないのですが 家内は事故を起こした友人に喰って掛かり
慌てて止めたのでしたが 母親としては寧ろ当然だったかもしれません 複雑骨折と創傷で全治6ヶ月掛かりましたが 幸い傷跡は残りましたものの 後遺症も無く完治しました 慶応の経済学部でゼミの合宿が箱根であり 参加したのでした
1ヵ月後位から家内が疲れたと言い始めました 夏の暑いときに藤沢から伊東まで毎日電車で通ったのですから 精根尽き果てたのでしょう 段々と言動がおかしくなり 北里大学病院へ入院したのが始まりとなりましたが 医者から病状の説明があった時に 言い難い事だがと前置きをして「奥さんの気持ちの中にご主人に対する敵意みたいなものがある どんな生活をしていたのですか」と問われ驚きました
昭和一桁世代で 且つ鹿児島の教育を受けた私は サラリーマンとして家庭を顧みることなく 只管会社の為に働いて来ました 特に転職した私にとっては 仕事は大事でした 恐らく家内は話し相手も無く 子供は一人でしたから 子供が彼女の生き甲斐だったのでしょう それが大怪我をしたのですから 独りで思
い詰めたのでしょう
後悔は先に立たずです 優しさはもっていても 薩摩隼人は表には出せません
20年間の内に3年程自宅へ帰って来た期間がありました 良かったと思ったのも束の間でした 再入院という事になった時は呆然としました
今は週に3回通っては2~3時間相手をしている生活です 何とか治して家に連れて帰りたいと願っているのですが 段々と悪い方向に進んでいるように見受けます でも頑張ります
長々とお話をしました 加齢と共に昔が懐かしく色々な会に出掛けては話すのを楽しみにしています
幸い友達に恵まれ支えられています 今回も北元さんが色々と骨を折ってくれお陰で楽しめました
地元に大黒柱が居ないと会は成り立ちません 幸い彼が居るから纏まります 貴兄の場合は外地ですから話す相手に苦労して居られるのではないでしょうか
毎日が日曜日ですから時間はあります 時々ご報告を兼ねてメールさせて戴きます
どうかお元気でお過ごし下さい 又。
(05-10-19)
重松 彬さんの近況を興味深く拝見しました
バンクーバーには1980年頃、関西経済同友会の海外ツアーで一度伺った事があります
確かフォーシーズンに泊まりましたが1泊で移動しましたので 綺麗な街という印象しか残っていません
それと新渡戸稲造さんの碑を覚えています
それにしても海外へ旅行で行くのは良いのですが 定住するとなると相当な決意が要る事でしょう
どうして貴兄が定住されるようになったのか分かりませんが 私が仕えたダイエーの中内さんは 一面ではコスモポリタンでしたから 海外に住みたいと良く話していました 毎月1回程度出ていましたが 下駄履きで行くというような感覚の持ち主でした 三越からダイエーに変わった時に 中内さんの配慮で 2ヶ月程米国に滞在して歩き回りましたが カルチュアショックを受けました
家内の病気の引き金になったのは 息子の事故でしたが それまでは病気一つせず元気でした
私は中内さんが大学を創りたいというので その設立の責任者として忙しい毎日を送っていました
当日も 或る人を教授として迎える為に口説いていて 帰宅が午前様となりました
帰ったら 家の鉄柵が開け放され タクシーが入っていました 家内から事故を聞かされ 3時間掛けて伊豆の伊東市の山の上にある病院へ駆けつけましたら 手術は終わり 息子は元気な様子でした
男親は命に別状無いとなると それ以上は心配しないのですが 家内は事故を起こした友人に喰って掛かり
慌てて止めたのでしたが 母親としては寧ろ当然だったかもしれません 複雑骨折と創傷で全治6ヶ月掛かりましたが 幸い傷跡は残りましたものの 後遺症も無く完治しました 慶応の経済学部でゼミの合宿が箱根であり 参加したのでした
1ヵ月後位から家内が疲れたと言い始めました 夏の暑いときに藤沢から伊東まで毎日電車で通ったのですから 精根尽き果てたのでしょう 段々と言動がおかしくなり 北里大学病院へ入院したのが始まりとなりましたが 医者から病状の説明があった時に 言い難い事だがと前置きをして「奥さんの気持ちの中にご主人に対する敵意みたいなものがある どんな生活をしていたのですか」と問われ驚きました
昭和一桁世代で 且つ鹿児島の教育を受けた私は サラリーマンとして家庭を顧みることなく 只管会社の為に働いて来ました 特に転職した私にとっては 仕事は大事でした 恐らく家内は話し相手も無く 子供は一人でしたから 子供が彼女の生き甲斐だったのでしょう それが大怪我をしたのですから 独りで思
い詰めたのでしょう
後悔は先に立たずです 優しさはもっていても 薩摩隼人は表には出せません
20年間の内に3年程自宅へ帰って来た期間がありました 良かったと思ったのも束の間でした 再入院という事になった時は呆然としました
今は週に3回通っては2~3時間相手をしている生活です 何とか治して家に連れて帰りたいと願っているのですが 段々と悪い方向に進んでいるように見受けます でも頑張ります
長々とお話をしました 加齢と共に昔が懐かしく色々な会に出掛けては話すのを楽しみにしています
幸い友達に恵まれ支えられています 今回も北元さんが色々と骨を折ってくれお陰で楽しめました
地元に大黒柱が居ないと会は成り立ちません 幸い彼が居るから纏まります 貴兄の場合は外地ですから話す相手に苦労して居られるのではないでしょうか
毎日が日曜日ですから時間はあります 時々ご報告を兼ねてメールさせて戴きます
どうかお元気でお過ごし下さい 又。
(05-10-19)

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