Sunday, November 13, 2005

再びバンクーバーから[s]

バンクーバーに来られたのは四半世紀前ですか。 その頃と違うのは、人口の構成でしょうね。 カナダは英語とフランス語が公用語ですが、バンクーバーでは、英語と中国語の二ヶ国語が幅をきかせています。 昔は日本人も中国人も二等市民の扱いでしたが、香港が中国に返還された頃から、香港の金持ちが大勢カナダに移住してきてイメージが変わり、東洋人の我々には住みやすい所となってきました。 以前は私も中国人に間違えられると、ムキになって否定したものですが、この頃は「金持ちに間違えられたか」と、風に流すことにしました。 

ブリティッシュコロンビア大学(UBC)の教授だった永谷敬三先生から、「神戸に行って数年教えることになったから、その留守宅に住む気はないか」という手紙を貰ったのが1997年。 渡りに船とモントリオールから引っ越して来たのですが、その手紙によると、「この辺は香港ストリートといって、中国人のミリオンダラーの邸ばかり」という事でした。

来てみると成る程その通り。 どの家も7寝室5浴室3~4台の車庫つきの豪邸ばかり。 永谷先生の家は、その中でひっそりと古風なたたずまいを残して建っていました。 永谷先生も、もし大蔵省を退官しないで残っていたら、次官か日銀総裁になれたかもしれないのに、あたら大学教授に転身したので、この時代がかった住まいに腰をすえることになったのでしょう。 それにしても、経済学者とはお金儲けの専門家かと思ったら、都留重人がそのような妄言を退けていましたが、永谷先生の簡素な生き方も、カナダ経済学会副会長の理論と実践の異なる実例を示すものでしょう。

実は店子の私は家主に、この8年間1回きりしか会っていません。 流通科学大学の学長の任期は2007年までと聞いていたのですが、今年末までということに変わったということは、何かあったのでしょう。

中内さんはナポレオンでしたね。 大学がセントヘレナ島だったということでしょうか。 その大学を訪れた直後急逝されたというのも、中内さんの魂魄が大学に留まって見守っているような気がします。

それにしても、貴兄の尽力で実現した大学とは驚きました。 息子の嫁の父親も、ハウス食品を辞めてから、評議員として講壇に立っていたようです。

家内の父親は戦後製紙会社をこしらえ、そこそこやっていたのですが、借金がふくらみ、昭和30年代に退陣しました。 その尻拭いに乗り込んだ本州製紙の幹部は、創業者のことを悪し様に言っていましたが、再建は難しかったようです。 

ダイエーの再建に乗り出した新経営者も、高らかにラッパを吹いていますが、創業者の大志を受け継ぐどころか、あえて創業者を否定する路線を歩もうとしているようで、大言壮語が恥をかかなければいいのですが。

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