再度バンクーバーから 重松です(05-10-21)[s]
私も、自分の悩みを打明けることのできる友を見出して、嬉しく思っているところです。
大塚邦彦さんとお知り合いだったのですか。 私が大塚さんにお目にかかったのは4年前。 長男の謙が大塚さんの次女の早基子と結婚する時で、その際は高石のお宅にお邪魔し、また東京で挙式の時も、お目にかかりました。 またそれから数週間後、バンクーバーの教会で、英語による式が行われた際も、大塚御夫妻に来ていただきました。
大塚さんは、名前は忘れましたが、ハウスの前身のOO商店に入社し、社長が日航機の事故で亡くなられた後、社長職を引き継がれたと聞いています。
早基子さんから聞いたのですが、大塚さんは、毎朝午前4時に起きて手紙を書かれるとか。 ご自身はビデオの操作も出来ないそうで、ワープロやパソコンは論外。 ですから手書きで書状を認められるのでしょうが、その辺が、ハウスの秘密兵器ではなかっただろうかと愚考するのです。
私の悩みはまだあります。 視力が劣化し、新聞も本も読めなくなってしまったことです。 食卓の上の料理もよく見えず、箸でつまんで口に入れ、初めて何を食べているか知るといった具合です。
普段は霧に包まれているわけですが、公共の大きな建物に入ると白煙が生じ、一人で空港の中も歩けません。 白内障と緑内障、それに網膜の裏側の神経と、3人の眼科医にかかっているのですが、最近は鍼も試みています。 天候と日と時間によって、霧の濃さが異なります。 年を取って盲目になろうとは、計算外でした。
パソコンは、モニターの字を大きく出来るので、今の所支障なくEメールを読んだり書いたりしています。 「カナダこのごろ」は、もっぱらラヂオとテレビの音声に頼って書いているのが楽屋裏の事情です。
私がまだ日本にいた30代の頃、医者が家内に「ご主人は50まで生きられませんよ」と耳打ちされたそうです。 それからイギリスに渡り、水銀を含まないカリフォルニア米を食べていたせいか、日本に一時帰国して同じ医者に診てもらったら「もう大丈夫」と言われました。 それと、BBCの仕事はストレスが全く無く、ハッピーだったからでしょう。
しかし私の両親も若くして死に、伯父達も50代前半で亡くなっていますから、74まで生きたのはオーバーデューだと思っています。
三越にいた恒川民雄君とは親しかったのですが、彼の転職には私も重々責任があるので、彼が若くして白血病で亡くなったという報せをロンドンで受け取った時は、痛恨の極みで言葉を失いました。 富山に戻られた未亡人とその遺児達はどうされたでしょうか。
恒川君も満尾君も頑強な身体の持主だったのに、先立たれたのは意想外でした。 私自身も先のことは判りません。 人生は後ろ向きに歩いているようなものだと思います。 背中に目は無いのですから、何が待ち構えているか判りません。 ただ自分の歩んできた道を見つめて、これからも同じ様な道程が続くものと信じて歩き続ける外ありません。 日本が僅か3年半の戦争ですべてを失った時、背中に目が無かったことが悔やまれます。 それにしても、あの3年半は長かったですね。
(05-10-21)
私も、自分の悩みを打明けることのできる友を見出して、嬉しく思っているところです。
大塚邦彦さんとお知り合いだったのですか。 私が大塚さんにお目にかかったのは4年前。 長男の謙が大塚さんの次女の早基子と結婚する時で、その際は高石のお宅にお邪魔し、また東京で挙式の時も、お目にかかりました。 またそれから数週間後、バンクーバーの教会で、英語による式が行われた際も、大塚御夫妻に来ていただきました。
大塚さんは、名前は忘れましたが、ハウスの前身のOO商店に入社し、社長が日航機の事故で亡くなられた後、社長職を引き継がれたと聞いています。
早基子さんから聞いたのですが、大塚さんは、毎朝午前4時に起きて手紙を書かれるとか。 ご自身はビデオの操作も出来ないそうで、ワープロやパソコンは論外。 ですから手書きで書状を認められるのでしょうが、その辺が、ハウスの秘密兵器ではなかっただろうかと愚考するのです。
私の悩みはまだあります。 視力が劣化し、新聞も本も読めなくなってしまったことです。 食卓の上の料理もよく見えず、箸でつまんで口に入れ、初めて何を食べているか知るといった具合です。
普段は霧に包まれているわけですが、公共の大きな建物に入ると白煙が生じ、一人で空港の中も歩けません。 白内障と緑内障、それに網膜の裏側の神経と、3人の眼科医にかかっているのですが、最近は鍼も試みています。 天候と日と時間によって、霧の濃さが異なります。 年を取って盲目になろうとは、計算外でした。
パソコンは、モニターの字を大きく出来るので、今の所支障なくEメールを読んだり書いたりしています。 「カナダこのごろ」は、もっぱらラヂオとテレビの音声に頼って書いているのが楽屋裏の事情です。
私がまだ日本にいた30代の頃、医者が家内に「ご主人は50まで生きられませんよ」と耳打ちされたそうです。 それからイギリスに渡り、水銀を含まないカリフォルニア米を食べていたせいか、日本に一時帰国して同じ医者に診てもらったら「もう大丈夫」と言われました。 それと、BBCの仕事はストレスが全く無く、ハッピーだったからでしょう。
しかし私の両親も若くして死に、伯父達も50代前半で亡くなっていますから、74まで生きたのはオーバーデューだと思っています。
三越にいた恒川民雄君とは親しかったのですが、彼の転職には私も重々責任があるので、彼が若くして白血病で亡くなったという報せをロンドンで受け取った時は、痛恨の極みで言葉を失いました。 富山に戻られた未亡人とその遺児達はどうされたでしょうか。
恒川君も満尾君も頑強な身体の持主だったのに、先立たれたのは意想外でした。 私自身も先のことは判りません。 人生は後ろ向きに歩いているようなものだと思います。 背中に目は無いのですから、何が待ち構えているか判りません。 ただ自分の歩んできた道を見つめて、これからも同じ様な道程が続くものと信じて歩き続ける外ありません。 日本が僅か3年半の戦争ですべてを失った時、背中に目が無かったことが悔やまれます。 それにしても、あの3年半は長かったですね。
(05-10-21)

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