Saturday, March 18, 2006

長い返事になりまして(06-03-18)[s]
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お独りの生活でも、いろいろ家庭の枠を超えるご心痛がおありの模様。 特に奥様のご容態をうかがうと、胸が痛みます。 

しかし、まわりを見回しても、十字架の重荷を負う家族が殆どのようですね。 TVのコマーシャルのような笑顔の家庭とは、実在するのでしょうか。 家庭のみならず、職場や社会での、人間関係のもたらす重圧に喘ぐ人達も多いことでしょう。 

慶應での大学生活は期待はずれだったということですが、私も文学部の4年間が無駄だったことを、後にコロンビア大学に1年遊学してみて感じました。 これは慶應だけの問題ではなくて、日本の多くの大学で、同じようなことが言えるのではないかと思います。 

終戦後アメリカ式の学制を取り入れた時に、仏作って魂入れずの作業だったことは、ラジオのフランス語講座の前田陽一先生が、アメリカの大学を訪ねてみてそう感じられたそうです。  

私がニューヨークに行ったのは昭和36~7年。 都留重人先生の「米国遊学記」に描かれた時代とは30年の隔たりがあったのですが、当時評判になった「なんでも見てやろう」という留学体験記に比べて、より真実に近いように思いました。 エマソンが「英国印象記」で、当時のイギリスの大学について感じたような雰囲気が、二十世紀のアメリカでも感じられました。

私がロンドンの夜学で日本語を担当していた時、クラスを取っていたレディング大学の美人の化学者が、「先生も東京大学ですか」と言いますから、「とんでもない。 私が行ったのはプレイボーイの行く学校で」と答えると、「アア、ケイオウデスカ」とやられました。 国際的にもその面では有名だったんですね。

慶應の学生の中には「某先生は一橋に受からなかったから慶應に来たんだって」と失礼なことを言う人がいましたが、ある程度真実をついていたかもしれません。 山形屋の会長社長が、「七高に受かったんだが、早く東京に行きたくて、慶應にした」というケースもあります。

高橋誠一郎先生は、芸術院長でしたが、慶應の先生で、学士院の会員になった学者はどれだけいたのでしょう。 

学生の一人は、「親父が小泉信三の愛読者で『お前、慶應に行け』と言うから来たんだ」と言っていました。

勿論偉い先生も大勢居るのでしょうが、伝説的な教育者は、これから出現することでしょうね。

それにしても、ドイツ語の先生がヒルティの哲学論を取り上げるとは乱暴な話ですね。 英語でも、マコーリーとかJSミルなんて、アメリカのインテリでも読まないでしょう。 日本語の勉強にお経を読ませるようなものではないかと疑います。 

アメリカの学校では、答案はすべて添削して、文法の誤りまで直して、返してくれました。 授業の始まる前には、先生がオフィスに詰めていて、何でも相談に乗ってくれる。 学生一人一人にアドバイザーがつき、コースの選択についてアドバイスしてくれる。 

慶應でも先生によっては「アメリカ式に厳しくしよう」と言う人もいましたが、採点した答案を返してくれたとは聞いたことがありません。

図書館は学生が自由に書庫に入って、書棚から本を取り出して、通路の小机で、文献を調べることができる。 夜は11時まで開いていましたが、その前にカリフォルニア大で勉強していた家内は、「バークレイでは夜中の12時まで開いていたのに」と、コロンビアのは閉館が早過ぎると思っていたようです。 三田は夜9時までだったでしょうか。

アメリカの大学は授業料は高いが、入学金という「やらずぶったくり」的ものはありません。 もし途中で退学すれば、授業料を返してくれます。 それに、先生の指導も学校のサービスも、高い授業料に見合うだけの値打ちがあったと思います。

日本の入試は半日のテストで運命が決まりますが、こちらでは内申書と共通テスト。 高校で成績の悪かった人でも、良い大学にスペシャルスチューデントとして登録し、聴講できます。 そして試験を受けてパスすれば、正規の学生に昇格します。 

大学で成績の悪かった奥手の人でも、大学院で、敗者復活が可能。 慶應の人でも、東京では然程頑張らなかったかもしれませんが、素質のいい人は、アメリカのシステムに溶け込んで、結構いい成績を上げる人もいたらしいです。 私にはとても無理でしたが。

ところで、貴兄が「大学の成績が悪かったから」というのは、信じられません。 貴兄独得の修辞だろうと思います。 それでも昭和30年頃というと、不景気で就職難だったのでしょうか。 忘れました。 高木寿一という就職部長の先生が「面接の時は、相手のネクタイの結び目を見よ」と言われたのを思い出しました。

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