「父のことなど」(06-01-24)[s]
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貴兄が越中富山の生まれとうかがって驚きました。 私は遂に富山には行けずじまい。 それにしても、ご父君が、大学を出て、いきなり旧制の富山高校に赴任とは、余程優秀だったのですね。 明治の初めに帝国大学を出た夏目金之助も、最初は「坊ちゃん」の松山中学だったようですから。
私は、小学時代までの本籍は、愛媛県の今治でした。 祖父が今治の出身で、明治の初めに笈を負って上京、大学予備門から帝国大学農科大学に学びました。 当時は農学部とは言わなかったようですね。 年齢からいって、予備門では漱石と同じ学年だったのではないかと勘ぐるのですが、漱石は松山中学から五高へ。 祖父は岐阜の農学校から広島の高等師範へという教師稼業。 というわけで、父は広島生まれ。 後にレコード屋を始めた時も、「安芸楽器店」と名付けました。 それが後にアキ洋装店となり、昭和40年頃までやっていましたが、我々兄弟が海外に移住して廃業しました。
祖父は、広島の高師から鹿児島の高農に転勤。 そういうわけで、父も鹿児島の二中から関西学院へ。 そして父の長兄が始めて投げ出した絵画材料と楽器店を引継ぎ、武町の製材所の娘だった母と結婚。 私が採れたという次第です。
赤塚兄も鬼籍の人となりましたか。 我々が附属を卒業した時、師範学校が県立から官立となり、我々の卒業証書も新しい番号が付けられ、赤塚兄がその第一号だったように憶えています。 15年前に鹿児島に帰った時、満尾兄が私の頭を見て、「君も禿げたなあ!」と驚きの嘆声を発しましたたが、その彼も先立ってしまいました。 30代の頃、医者が家内に「ご主人は50までもちませんよ」と耳打ちしたそうですが、日本でセールスマンを続けていたらそうだったかもしれません。 ラジオの仕事に変わったので、74まで生き延びたのかなと思います。
私は心理学の本を読んで、自分の知能程度なら、スモールビジネスか教師が適性かと思ったのですが、 文学部を出る時に、同和火災が無試験で採ってくれるというので、先生になる前に実社会の経験を積んでおくのも悪くなかろうと思い、お世話になることにしました。 ところがこれが間違いで、15年程無駄な年月を過ごしてしまいました。 その後たまたまラジオの仕事にありついたので、教師の職とは違うけれども、アイディアと言葉を使う点では、多少似通った環境に近づくことができたかなと思っています。 教室だと大勢の生徒に接することになり、ストレスでしょうが、ラジオだと、スタジオで独り言を言っていればいい。 調整室にいるテクニシャンは日本語のわからない外人。 それに、この時間日本では誰も聴いていないだろうと思うと、気楽な稼業でした。 だから74まで長生きできたのでしょう。
寒さがまだ厳しいそうですが、くれぐれもお大事に。
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貴兄が越中富山の生まれとうかがって驚きました。 私は遂に富山には行けずじまい。 それにしても、ご父君が、大学を出て、いきなり旧制の富山高校に赴任とは、余程優秀だったのですね。 明治の初めに帝国大学を出た夏目金之助も、最初は「坊ちゃん」の松山中学だったようですから。
私は、小学時代までの本籍は、愛媛県の今治でした。 祖父が今治の出身で、明治の初めに笈を負って上京、大学予備門から帝国大学農科大学に学びました。 当時は農学部とは言わなかったようですね。 年齢からいって、予備門では漱石と同じ学年だったのではないかと勘ぐるのですが、漱石は松山中学から五高へ。 祖父は岐阜の農学校から広島の高等師範へという教師稼業。 というわけで、父は広島生まれ。 後にレコード屋を始めた時も、「安芸楽器店」と名付けました。 それが後にアキ洋装店となり、昭和40年頃までやっていましたが、我々兄弟が海外に移住して廃業しました。
祖父は、広島の高師から鹿児島の高農に転勤。 そういうわけで、父も鹿児島の二中から関西学院へ。 そして父の長兄が始めて投げ出した絵画材料と楽器店を引継ぎ、武町の製材所の娘だった母と結婚。 私が採れたという次第です。
赤塚兄も鬼籍の人となりましたか。 我々が附属を卒業した時、師範学校が県立から官立となり、我々の卒業証書も新しい番号が付けられ、赤塚兄がその第一号だったように憶えています。 15年前に鹿児島に帰った時、満尾兄が私の頭を見て、「君も禿げたなあ!」と驚きの嘆声を発しましたたが、その彼も先立ってしまいました。 30代の頃、医者が家内に「ご主人は50までもちませんよ」と耳打ちしたそうですが、日本でセールスマンを続けていたらそうだったかもしれません。 ラジオの仕事に変わったので、74まで生き延びたのかなと思います。
私は心理学の本を読んで、自分の知能程度なら、スモールビジネスか教師が適性かと思ったのですが、 文学部を出る時に、同和火災が無試験で採ってくれるというので、先生になる前に実社会の経験を積んでおくのも悪くなかろうと思い、お世話になることにしました。 ところがこれが間違いで、15年程無駄な年月を過ごしてしまいました。 その後たまたまラジオの仕事にありついたので、教師の職とは違うけれども、アイディアと言葉を使う点では、多少似通った環境に近づくことができたかなと思っています。 教室だと大勢の生徒に接することになり、ストレスでしょうが、ラジオだと、スタジオで独り言を言っていればいい。 調整室にいるテクニシャンは日本語のわからない外人。 それに、この時間日本では誰も聴いていないだろうと思うと、気楽な稼業でした。 だから74まで長生きできたのでしょう。
寒さがまだ厳しいそうですが、くれぐれもお大事に。

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